山口先生の家に入りびたった教え子たち
教え子の目から見ると、よく幼年学校が務まったものだと思われるほど、束縛や強制、規則を嫌い、生徒を信頼してその自主的な判断を重んじてくれた。自由放任ともいえた。奥さんとまだハイハイしていた長男が一緒に住む狭い公営住宅には、常時、生徒が数人たむろしていて、勝手にご飯を炊き、おかずを作って食べていた。家人が留守中、雨戸をはずして上がり込み、隣人から警察に通報されかけた者もいた。1カ月の給料分をまるまる生徒が食べてしまったこともあり、奥さんはしばしば、近所にお米を借りにゆかなければならなかった。
ワタリガニのキムチ。辛い!
先生の家に泊まり込んで帰宅しないので、出来の悪いわが子の勉強を特別にみてくれていると思っていた親たちがいたかもしれない。それが勘違いであったと気づくのは、大学入試の後だった。入り浸っていた常連10人余りのうち、現役で合格できたのは、2人ばかり。なんと90%に近い高率。姜先生と違って、浪人率であるが。当時の教え子がそれで目が覚めたかというと、全くそうはならず、42年を経てなお、筆者がそうであるように、先生にまとわりついている。
江陵午後0時30分始発の特急列車ムグンファ号は、鉄条網をめぐらせた海際をしばらく走っていたかと思うと、突然スイッチバックを始めて太白山(テペクサン)系に取りついた。ループ式のトンネルを抜けると高度はおよそ800メートルに達していた。ちょうど紅葉のシーズンで、卒倒しそうな色彩の中を列車はゆく。釜山(プサン)に直行するのは、1日にこの便1本だけである。(つづく・・・第5回「友情を深めた釜山の歌」)
夕食:ヘジャンクク(臓物と血液の煮込み)
宿泊:モアモーテル(2人1室で1泊3万ウォン=1人約1,900円)