記者時代、姜先生の苦い思い
安東がある慶尚北道(キョンサンプクド)は、姜先生の記者時代の取材拠点である。韓国合同通信時代の1961年、軍事政権を批判して投獄され、通信社も解雇された。東亜日報がたまたま記者経験者を募っているのを知って応募、32倍の難関をくぐって採用されたが、5年後、軍の贈収賄事件をすっぱ抜き、各方面から圧力を加えられるなか、元の記事に手を加えず、そのまま載せることを条件に、みずから退職。68年、釜山日報に転じ、ここで定年まで過ごす。最後は慶尚北道の道都・大邱(テグ)の支社長だった。
車窓から見た韓国の農村は日本の山里をしのばせて、どこか懐かしい
忠清北道(チュンチェンプクド)との境界にそびえる山岳地帯に歩いて登り、焼き畑農業を続けている火田民を何日も取材、ひどい格好で下山したこともある。「ぼくはだいたい地方の取材が好きなんです。いったん取材に出ると、連絡のつかないような田舎をうろついて、1カ月も家に帰らないことがしばしばありました」という。
そんな出張から帰宅すると、奥さんが亡くなっていた。「葬式もなにも、息子がすませたあとで……。ぼくが30年も独身を通しているのは、妻に申し訳なかったという気持ちも少しはあるんです」と話す。