万博とマイナ 加谷珪一さんはハコモノへのこだわりに喝!

   ニューズウィーク日本版(9月5日号)の「経済ニュース〈超〉解説」で、経済評論家の加谷珪一さんが、迷走する万博とマイナンバーカードを並べて論じている。

   2025年春の開幕を目ざす大阪・関西万博は、目玉となる海外パビリオンの建設が進まない。マイナカードは健康保険証との一体化に批判が強く、内閣支持率を押し下げる。この二つ、思惑通りに進んでいないという以外に、何か通じるものがあるのだろうか。

「一見すると無関係な大阪万博とマイナカードの問題に共通しているのは、ハコモノ行政という時代遅れの発想である」

   まず万博。パビリオン建設の遅れには 人手不足や建設資材の高騰が絡むが、ことはプロジェクト管理だけの問題ではない。加谷さんはそもそもの開催意義に疑問を呈す。

「近年、グローバルな企業社会の在り方が大きく変容しており、巨大な展示会を開催し、ハコモノを通じて人やお金を集める手法は完全に時代遅れとなっている」

   かつては民間にも国際展示会の計画があったが、中止や規模縮小を迫られたものが多いそうだ。大阪と競ったのがロシアとアゼルバイジャンなのは象徴的だと。

   では、マイナカードまでが「ハコモノ」とはこれ如何に。デジタル社会へのパスポートだと政府が喧伝するように、カードは脱ハコモノのシンボルではないのか。

まずは日本の中枢が「ハコモノ信仰」を脱すべし=霞が関で
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モノで本人確認

「カードがないと日本のデジタル化が遅れるというのは事実ではなく、むしろその逆である。全国民には既にマイナンバーが振られており、システム連携さえしっかりすれば 制度はすぐにスタートできる。本人確認の方法はさまざまなので、カードがなくても 何の問題もなくシステムの運用が可能だ」

   ここで筆者はお隣 韓国の例を引く。

「日本をはるかに上回るマイナンバー制度を整えているが、韓国人はシステムの利用に当たってカードを使う必要がない。自分の名前や住所など 必要な情報を窓口で伝え、本人であると確認されれば 病院でも区役所でも手続きが自動的に進む」

   そんな好例がすぐそこにあるのに、日本はなぜかカードという「ブツ」にこだわる。

「おそらくだが、制度を設計した日本政府内部の担当者やマイナカード導入を強く主張している論者は、カードという物理的なモノが存在しないと本人確認ができない と考えている可能性が高い」

   いかにも「ハンコの国」の発想である。

「ハード(ハコモノ)という物理的なものにとらわれ、その上位に来るソフトウエアに思考が及ばないという点では、万博とマイナカードには共通のパターンが見られる。こうしたハコモノ行政の発想から脱却できなければ 日本経済の復活は難しいだろう」

国ぐるみの失敗

   加谷さんは日経BP社の記者、野村證券グループ投資会社を経て、中央省庁のコンサルティングなどを手がけた。テレビの経済解説でも見る顔だ。

   大阪万博とマイナカード、国際イベントと行政システム改革の違いはあれど、どちらの評判も芳しくない。前者は地元自治体のドンブリ勘定や甘い見通し、後者はもっぱら システム設計や確認作業に問題ありとされる。あえて共通点を探すなら、私なら期限ありきの「突貫工事」や、それに伴う行政の焦りくらいしか思いつかなかい。

   対して加谷さんは、二つの巨大プロジェクトを「ハコモノ信仰」で括ってみせる。プラスチックに個人認証のICチップを埋め込んだカードも、モノ依存という意味ではパビリオンと同じ古臭い発想だと。

   紛失や盗難が恐くてマイナカードを持ち歩けないとか、病院ではカードだけでは不十分で 旧来の保険証も提示すべし、といったナンセンスな話をよく聞く。新システムの導入時にはバグや混乱がつきものだが、デジタルとは名ばかりの、極めてアナログ的な不備が目立つ。まるで「いまメール送ったから」と電話をするような...。

   慣れ親しんだ モノ中心の発想から脱却するのは、かくも難しい。加谷さんはしかし、それなしに「日本経済の復活は難しい」という。想像したくもないが、苦い教訓として国ぐるみの失敗が あと二つ三つ要るのかもしれない。

冨永 格

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