博物館の神話空間 中沢新一さんが読み解く 静かで頑強な抵抗
週刊現代(8月26日-9月2日号)の「今日のミトロジー」で、思想家の中沢新一さんが博物館について論じている。ある意味、そこは神話の空間だと。
「予想もしなかったほどの『博物館推し』である...経営難に陥っている上野の国立科学博物館が、クラウドファンディングによって、1億円を集めようとした。するとその発表があった当日中に、すでに目標額に達してしまった」
独立行政法人 国立科学博物館は、国からの交付金(今年度 約28億円)と入館料などの収入約7億円で運営される。昨今の光熱費高騰などで膨大な標本群の維持が厳しくなり、8月7日に返礼品つきのクラファン(11月5日まで)を発表、わずか9時間20分で目標の1億円を達成した。今では約4万5000人が計7億2000万円を超す浄財を寄せている。
「こんなにも熱く、博物館を想っている人たちが、この国に大勢いるのかと思うだけで、博物館ファンの私などは、胸が熱くなった」
筆者が考える博物館の魅力とは何か。国立の大型施設から地方の民族博物館に至るまで、展示室に足を踏み入れると「外の世界とは違う、独特の時間と空間の秩序が広がっている」という。そして、それは心の深層において「神話」の問題だと説く。
「そこでは流れる時間は凝縮され、空間はいくつもの層をなして、一つの場所に積み重なっていくように感じられる。展示室の全体が、一つの物語を語りだしている」
その物語に没頭できた入館者には、極上のひとときが約束されているという。
「しばし外の世界のものとは異質な時空の中に、沈み込んでいくような、静かで深い体験をすることになる」
動植物と一体だった
博物館には人間を超越し、その存在を客観視できる仕掛けが用意されている。
「いまは『人新世』とか言って、人間が地上で好き勝手にふるまうことを許された、唯一の生物であるかのように思い込んでいるが...(石器時代の人間は)狩猟と採集によって、慎ましく生きていた...動物や植物のことを...深い叡智を持つものとして、尊敬していた」
われわれが優越感に浸り始めるのは、ずっとあとのことだ。
「博物館は、この世界はもともと人間だけのものではなく...人間と動物や植物などがまだ一体であった神話の時代があったこと、それ以上に、地上にまだ人間などが現れていなかった時代があることを、一目瞭然のパノラマとして見せている」
それゆえ、博物館をただの展示場と侮るのは大間違いだと。
「一見無害そうな外観とは裏腹に、人新世の現代をつくりあげている原理に、静かで頑強な抵抗を試みている。博物館にはどこか人を救う力が隠されている」
さらに、圧倒的な「現物」の力が加わる。展示ケースの石斧には動物を解体した痕跡が残され、蔓を編んだ籠には往時の手仕事が刻み込まれている。
「現物であるだけではなく、昔この土地に生きていた人間の行為が、そのまま凍結されている...そこにはミトロジー(神話)の磁場が、いまでも消えることなく、強力に残されている。人々はそこに惹きつけられている」
人を救う力とは
国立科学博物館の「経営」がそこまで綱渡りだとは知らなかった。立派な名称と、なりふり構わぬカンパ集めの落差に戸惑った人も多いだろう。しかし驚きはそこで終わらず、あっという間に多額の浄財が集まってしまった。
この話から書き起こし、博物館の魅力や役割に言及する論考である。筆者のホームグラウンド、神話世界への引き込み方が浅くも強引でもなく、いい具合だと思う。
博物館への共感は、施設に備わる「ミトロジーの磁場」のなせる業、静かだが頑強な抵抗への支持である...著者の考えを短くまとめれば、そういうことになろうか。
中沢さんが博物館に秘められているという「どこか人を救う力」とは何だろう。
ヒトは農業により定着し、やがて国に連なるコミュニティをつくる。そして歴史を記すようになると、次第に我が物顔で振る舞い始めた。戦争も環境破壊も、地球温暖化も核の脅威も食料不足も、言ってしまえば自業自得の危機である。
そんな時代、博物館は見学の数時間にせよ、人間が弱い存在だった時代を思い起こさせる。自然への畏怖と、とうに忘れた謙虚さを取り戻させてくれるのだ。
博物館が発する「静かで頑強な抵抗」は、我を見失った人間への警告でもある。それが時空を超えた特別な空間ならば、運営をより安定させるべく、国からの支援を手厚くすべきである。「科博」の顛末、一過性の美談に終わらせてはならない。
冨永 格