関東大震災から100年 「加害」の歴史「福田村事件」で映画化
関東大震災で、日本人が朝鮮人と間違われ、虐殺された事件があった。この事件を題材にした映画「福田村事件」が、震災100年に当たる2023年9月1日に全国公開される。
関東大震災では10万人以上の犠牲者が出たが、混乱の中で自警団などに殺された人が少なくなかった。そうした「加害」の歴史が映画化されるのは異例だ。
讃岐弁を話す行商人
事件は、震災5日後の1923(大正12)年9月6日に起きた。
朝日新聞によると、香川県の被差別部落から千葉県に来ていた薬の行商の一行が、讃岐弁を話すことで朝鮮人と決めつけられ、自警団に襲われた。
行商団の15人のうち、幼児や妊婦を含む9人が惨殺された。当時「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などの流言飛語を真に受けた人々が、朝鮮人を殺傷する事件が各地で相次いでいた。
70年代末に千葉県内で真相究明の取り組みが始まり、震災80年の2003年には千葉県野田市の現場近くに「追悼慰霊碑」が建てられた。
そのころから映画化の構想があり、3年ほど前に具体化へ動き出したという。
製作者が8月3日、千葉県庁で記者会見した。朝日新聞によると、統括プロデューサーの小林三四郎さんは、「朝鮮人の虐殺や被差別部落を扱っているということで敬遠される雰囲気があり、資金集めは困難を極めた」と語っている。クラウドファンディングや文化庁の補助金、個人などの出資金で約1億円の制作費を工面した。
善良な群衆が「加害者」に
映画の製作は「『福田村事件』プロジェクト」。監督は森達也さん。オウム真理教に密着して実態を撮影した「A」など数々のドキュメンタリー作品で知られる。森さんにとって初めての長編劇映画だ。出演は井浦新、田中麗奈、永山瑛太、東出昌大、水道橋博士、ピエール瀧、柄本明ら。
作品は実話に基づくフィクションになっている。NHKのインタビューで森さんは、事件の背景として、集団や組織が持つ同調圧力や暴走のリスクを指摘。福田村と同様の事件は歴史上、国内外で起きてきたと強調している。
「人が集団に帰属することは当たり前だが、個を保つことが大切。集団が暴走を始めたときに、なんか変だぞ、と思う気持ちを持つだけでも違う。『一人称単数の主語』を持つことが必要です」
映画でこだわったのは、善良な群衆が刻々と「加害者」に変貌していく姿だったという。
「たぶん朝鮮人が憎くて殺したいと思った人はいない。でも朝鮮人に家族が殺されたらどうする、その意識が先走って、殺害という結果につながる。このメカニズムはほとんどの虐殺や戦争につながると思います。善良な人が自衛意識ひとつで加害者になる。ある意味では今の僕たちとは地続きで、その場に立つとそうなるかもしれないし、つまり加害者は普通の人間であり、モンスターではない」
震災犠牲者の1~数%は「殺されていた」
関東大震災で「殺された人」はどれくらいいたのか。
2008年に内閣府の中央防災会議専門調査会が「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書」を作成、以下のように記している。
「関東大震災時には、官憲、被災者や周辺住民による殺傷行為が多数発生した。武器を持った多数者が非武装の少数者に暴行を加えたあげくに殺害するという虐殺という表現が妥当する例が多かった。殺傷の対象となったのは、朝鮮人が最も多かったが、中国人、内地人も少なからず被害にあった」
「殺傷事件による犠牲者の正確な数は掴めないが、震災による死者数(約10万5000人)の1~数%にあたり、人的損失の原因として軽視できない」
「自然災害がこれほどの規模で人為的な殺傷行為を誘発した例は日本の災害史上、他に確認できず、大規模災害時に発生した最悪の事態として、今後の防災活動においても念頭に置く必要がある」
関東大震災で「殺された人」が多数いたことを明確に認めている。「福田村」の被害者は、そのごく一部ということになる。再発防止についても言及している。
折口信夫や千田是也も体験
関東大震災の虐殺事件を調べた『九月、東京の路上で』(加藤直樹著、2014年、ころから刊)によると、自警団に詰問されたり、朝鮮人の疑いをかけられたりした日本人は少なくなかった。
国文学者の折口信夫は地震の3日後、下谷・根津方面に向かって歩いていたら、突然、刀を抜いた自警団と称する人々に取り囲まれた。
「その表情を忘れない。戦争の時にも思ひ出した。戦争の後にも思ひ出した。平らかな生を楽しむ国びとだと思つてゐたが、一旦事があると、あんなにすさみ切つてしまふ。あの時代に価(あ)つて以来といふものは、此国の、わが心ひく優れた顔の女子達を見ても、心をゆるして思ふような事が出来なくなつてしまつた」と回想している。
俳優座をつくった高名な演出家、千田是也は当時19歳。早稲田大学で学ぶ演劇青年、伊藤国夫だった。地震の翌日夜、「不逞鮮人」が押し寄せてくるというので千駄ヶ谷の土手に「敵情視察」に出かけた。そこで逆に、こん棒などを手にして提灯を掲げた一団に取り囲まれる。「国籍をいえ」「嘘をぬかすと、叩き殺すぞ」と追及された。早稲田の学生だといって、学生証を見せても信用されない。頭の上に薪割りを置かれ、「アイオウエオを言ってみろ」「教育勅語を暗唱しろ」と責め立てられる。たまたま自警団の中にいた近所の人が気づいてくれて助かった。
この恐怖の経験をもとに、「早稲田の伊藤国夫」はのちに「千田是也」と名乗るようになる。「千駄ヶ谷」の「コリアン」の意味だ。
「警視庁も失敗した」
「朝鮮人が襲撃してくる」という流言は、自然発生的なものだったのか。
『証言集 関東大震災の直後 朝鮮人と日本人』 (2018年刊、ちくま文庫)によると、当時警視庁のナンバー2だった正力松太郎は、のちに「警視庁も失敗した」ことを認めている。一時は「朝鮮人騒ぎは事実」と信じたからだ。
編者の西崎雅夫さんによると、警察を管轄する内務省自体が「震災を利用し、朝鮮人は各所に放火し不逞の目的を遂行せんとし現に東京市内で爆弾を所持し石油を注ぎて放火するものあり」と全国に打電していた。西崎さんは、「公的機関によって裏打ちされた流言飛語」が被災地を席巻し、地方で発行された新聞がそれらをそのまま掲載し輪をかけたと指摘している。
戦後NHK会長にもなった野村秀雄は当時、朝日新聞の政治部記者だった。同僚の社会部記者が、「各所を鮮人が襲撃しているから、朝日新聞で触れ回ってくれと警視庁が言っている」と駆け込んできたと振り返っている。評論家の中島健蔵は、警察署の板塀に「不逞朝鮮人が反乱を起こそうとしているから警戒せよ」という張り紙が出ていたことを記憶している。治安当局が、惨殺を引き起こすフェイク情報の発信源になっていた。
暴徒はむしろ自警団員
ではなぜ当時「朝鮮人」にたいする警戒感が高まっていたのか。
記録文学で知られる作家の吉村昭さんは、1973年に刊行した『関東大震災』(文藝春秋刊、菊池寛賞を受賞)で冷静に分析している。「明治43年(1910年)、強引に朝鮮を日本領土として併合」という歴史を踏まえながらこう記す。
「日本の為政者も軍部もそして一般庶民も、日韓議定書の締結以来その併合までの経過が朝鮮国民の意志を完全に無視したものであることを十分に知っていた。また総督府の苛酷な経済政策によって生活の資を得られず日本内地へ流れ込んできていた朝鮮人労働者が、平穏な表情を保ちながらもその内部に激しい憤りと憎しみを秘めていることにも気づいていた。そして、そのことに同情しながらも、それは被圧迫民族の宿命として見過そうとする傾向があった」
「祖国を奪われ苛酷な労働を強いられている朝鮮人が、大災害に伴う混乱を利用して鬱積した憤りを日本人にたたきつける公算は十分にあると思えたのだ」
「朝鮮人が放火した」「井戸に毒を入れた」「襲撃してくる」などの流言については、「日本人の朝鮮人に対する後暗さが、そのような流言となってあらわれたことはまちがいなかった」「これらの流言のすべてが事実無根で、一つとして朝鮮人の来襲等を裏づけるものはなかった」と記している。
「自警団」についての記述はさらに強烈だ。「凶器を手にした自警団は、完全な暴徒集団に化していた」「暴徒はむしろ自警団員らであった」と書いている。
震災の4年前の1919年には朝鮮半島全土を巻き込む「三・一運動」が起きている。日本の支配に抗する大規模な独立運動だ。
内閣府の「専門調査会報告書」も、「広範な朝鮮人迫害の背景としては、当時、日本が朝鮮を支配し、その植民地支配に対する抵抗運動に直面して恐怖感を抱いていたことがあり、無理解と民族的な差別意識もあったと考えられる」と分析している。
映画「福田村事件」は 、テアトル新宿、ユーロスペースほかで全国公開される。