イワナの顔 やまとけいこさんは取り残された一匹にエール
「山釣りJOY 2023 vol.7」の巻頭エッセイで、山と旅のイラストレーター やまとけいこさんが、渓流で遭遇したイワナとの「にらめっこ」を活写している。
山と渓谷社が出す釣りムック。やまとさんは山小屋の従業員にして、黒部峡谷のイワナを愛でる釣り人でもある。筆名は山渓(やまけい)由来だろうか。
「黒部源流の増水はすさまじい。豪雨ともなれば、連なる峰々の沢筋から一気に水がなだれ込み、本流は暴れのたうつ竜のごとしである」
さてそんな時節、ふだん清流と戯れているイワナたちはどうしているのか。
「濁流にジッと目を凝らすと、波の寄せる川縁の浅瀬に、必死の様子で泳ぐイワナの姿が時おり浮かんでは消える。山小屋の中でぼんやりと増水を眺める私とは違い、彼らは生死をかけた戦いの最中なのだ」
黒部の源流あたりは、ひとたび雨が止めば水が引くのも早い。丸一日たてばイワナは再び水面に浮き始め、プカリプカリと清流を漂うという。
「お疲れ気味な様子のイワナたちの姿を眺めながら、ぶらぶらと河原を歩いていると、おや、小さな水たまりに大きなイワナが一匹 取り残されている」
筆者はおそらく雨上りの散歩中...本作の「主人公」との出会いである。
岩になったつもり
「ヒョイと覗き込むと、慌てたイワナは右往左往。どうにも水たまりが小さすぎて、身を寄せる岩陰が見つからないようだ。やがて ままよと水たまりの底にピタッと張り付き、動きを止めた。忍法、岩になったつもりの術」
めったにないチャンスである。やまとさんは、逃げ場を失い「岩になったつもり」のイワナ君をじっくり見てやろうと思い立つ。
「私はそっと水たまりに顔を近づけ、イワナを正面から覗き込んだ。イワナは一瞬、ピクリと身じろぎしたが、どうにかこらえたようだ。僕は、岩」
イワナになったつもりの筆致が効いている。この魚と長く付き合ってきた人らしく、イワナの「気持ち」を察しての感情移入である。
「しばらく動かずに じっとイワナを観察していると、肉厚の唇と小さな心臓をパクパクさせながら、イワナも懸命にこちらを凝視している」
このあたりは本作の佳境。小さな命へのリスペクトが、行間に滲んでいる。そしてイワナとの一時の対面は、優しい言葉で結ばれる。
「私にとってはほほえましい限りだが、意地悪してごめん。次の増水が来るまでそこで我慢しなさいね」
渓流の王様
やまとさんは1974年生まれ。若いうちに山歩きや沢登りに目覚め、29歳で山小屋でのアルバイトを開始、6~10月は北アルプスの最奥部にある薬師沢小屋で生活するようになる。『黒部源流山小屋暮らし』(2019年、山と溪谷社)などの著作がある。
この短いエッセイは、そんな生活でのひとコマを描いたものだ。増水が引いた後、水たまりに取り残されたイワナ。一般的には非日常のシチュエーションだが、筆者にとってはこれも日常の一部である。運の悪い一匹を見つけても「おや」のひと言。無用の「!」を排し、一部始終を淡々と記している。
イワナ(岩魚)は貪欲な肉食性で、「渓流の王様」とも呼ばれる。同じように河川の上流に棲息するヤマメ(山女)と並ぶ人気魚だが、源流に近い最上流域の冷水を好み、その大きさと量で森の豊かさを示すバロメーターとも言われる。
作中の魚は「大きなイワナ」というから30㎝クラスか。警戒心はヤマメほど強くないとされるが、物理的に逃げられない状況で人間と対峙するのは初めてに違いない。「肉厚の唇と小さな心臓をパクパクさせながら...」という描写に、必死さが見て取れる。
渓谷や清流に、まさに自然体で融け込んでいる人が綴る身辺雑記。水たまりに封じられた魚との遭遇にも、ことさら構えず、無駄に高まらず、見たままを伝えてくれる。それは黒部源流の清水のように、比類なき透明感で読者の心に流れ込む。
冨永 格