使わない言葉 小川哲さんが抵抗を覚える「誕生日おめでとう」

   Pen 6月号の「はみだす大人の処世術」で、小川哲さんが「マイNGワード」と題して 自分では決して使わない言葉を紹介している。「はみだす...」の連載を取り上げるのは昨年12月以来だが、前回と大きく違う点は、小川さんが今年『地図と拳』(集英社)で第168回直木賞を受賞したことだ。さて、時の人の言語感覚をのぞくとしよう。

「他人が使うのは一向に構わないのだが、自分では絶対に使わない日本語が存在する」

   この冒頭、あえて「他人が使うのは一向に構わない」と断るあたりに、直木賞作家としての自制が働いていると見た。あたり構わず「はみだす」勢いには欠ける。

   筆者がまず挙げたのは「リスケ」(リスケジュール、日程の再調整)などの和製ビジネス用語。そして「チルい」(リラックスした様子)「Z世代」(1990年代半ばから2010年代前半に生まれた世代)といった新語群である。

「意味はだいたいわかるのだが、なんというか僕の内臓に染みていないので、口にしようという発想にならない...こういった比較的歴史の浅い言葉は、年齢や世代によって使う基準が大きく変わってくるだろう。先輩作家は『コスパ』とか『ヤバい』とか『マジで』という言葉は絶対に自分では使わないといっていた」
「誕生日おめでとう」が嫌な人もいるとは
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「尊敬」も「天才」も

   小川さん、昔ながらの日本語にも使わない言葉があるそうだ。

「たとえば僕は誰かに向かって『愛してる』とか『好きだ』という言葉を発することができない...喋った途端に軽くなってしまうというか、嘘になってしまうような気がするのだ」

   「尊敬している」や「天才」もだめ。理由は明快で、本質的に誰かを尊敬したり、天才だと思ったりすることがないからだという。

「誰かが成し遂げた偉業や、誰かが残した作品に感動したり、率直にすごいと思ったりすることは人並みにあるのだが...どんな偉業やどんな作品も、僕と同じ人間が、ある過程を経て生み出すもので、その過程をたたえるだけで十分だと思ってしまう」

   そうかと思えば、意外なNGワードもある。「ここから先は理解不能な領域になっていく」と予告してから紹介する「誕生日おめでとう」である。

「根本的に、誕生日というものをめでたいと思っていないからだ...誕生日をもつことにも、誕生日を維持することにも、なんの努力も才能も要らない。高齢の老人ならまだしも、ただ漫然と誕生日を迎えることなんて誰でも達成できる」

   もっと嫌なのが「あけましておめでとう」らしい。

「人間がきわめて恣意的につくった暦というシステムが、ただ単に更新される、というだけのイベントのなにがめでたいのかわからない...『あけましておめでとうございます』と言われると、僕はいつも気まずい思いをしながら、小さい声で『どうも』や『はい』と口にしている」

   このあと、こうした「理解不能」な性癖をめぐる自省気味のオチがつくのだが、そちらは図書館か書店で確認されたい。

浮いた感じに

   小川さんが「絶対に使わない日本語」というのは、もっぱら日常の話し言葉についてのことであり、小説世界のことではないと理解した。作品中の言葉はいわば道具だから、好き嫌いがあっては仕事に差し支えるだろう。

   もちろん、普段使いの言葉は仕事にも影響する。小説家に比べ 言葉に関する制限が圧倒的に多い記者としての経験からしても、めったに使わない、あるいはなるべく使わない言葉や言い回しは原稿でも用いなかった。物書きとしてもっと気をつけたのは、好きな言葉を多用しないことだった。ふだんのクセがバレないよう心がけた。

   「内臓に染みていない」言葉は使わない、というポリシーは感覚としてわかる。文は人なりとも言うが、作者が使い慣れない言葉は 作中で妙に浮いた感じになるものだ。コラムなどでも、地の文で一つでも新語や若者言葉を使うと、中高年が無理していると思われるのが関の山、読後に痛々しい雑味が残ってしまう。

   「愛してる」はともかく、「誕生日おめでとう」や「あけましておめでとう」までがNGという告白はやや理屈先行か。ちなみに小川さんが生まれたのは1986年のクリスマス。年末年始の祝祭シーズンに 私的な祝い事が埋没する宿命、巡り合わせである。

   「おめでとう」への感覚もおのずと冷めてしまうのだろうか。

冨永 格

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