人間関係と服 カツセマサヒコさんは疎遠になった友に想う

   CLASSY.6月号の「それでもモテたいのだ」で、小説家のカツセマサヒコさんが 疎遠になった親友との関係を「服」に重ねて綴っている。

「今の日本で人類が過ごしやすい時期なんて、本当は二カ月もないんじゃないか...ストレスなく生きられる時間は極めて短く、活動時間だけ考えれば...昆虫みたいなものだ」

   寒い冬に 花粉の春が続き、梅雨を挟んで猛暑となる。長雨の前、大型連休明けに旅に出ようと思い立った筆者。牛タンを食べたいという理由から行き先を仙台に定めた。

「おしゃれな観光サイトを無慈悲に高速スクロールしながら、宮城県内の旅館や美術館を調べる...途中で見覚えのある景色があって、スクロールする指を止めた」

   それは公園の写真で、ガランとした風景に見覚えがあった。「私は確かに、過去にその場所に行ったことがあった」。筆者の記憶は20歳を過ぎた頃にさかのぼる。

「大学で、原くんという友人ができた...会話のテンポが妙にしっくりきた...出会って早い時期からこんなに波長が合う友人ができるのは初めてで、彼とは在学中、本当によく遊ぶことになった」

   共に飲み、旅行にもよく行った。屋久島に韓国、卒業時には弾丸ツアーでラスベガスへ。そして仙台にも、ふらりと夜行バスで出かけたことがあった。

「宿も取らず...カラオケ店の一室で、歌い明かして夜を越え、朝を迎えた...閉店時間になって店を追い出され、帰りの新幹線まで時間を潰した場所。それが、目の前でパソコンのモニターに表示されている、この公園だったんじゃないか」
一緒にカラオケを楽しんだ友人も、その後は…
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心に空洞が

「あの青すぎて若すぎる一日を思い出して、それで、そもそも原くんとは大学を卒業してから、ほとんど疎遠になっていたことにも気付いた。毎日のように笑い合って、誰よりも仲が良かった友人と、あっさりと離れてしまう。どれだけ薄情な人生だろう...」

   カツセさんは「心に大きな空洞ができたような静かな寂しさ」を感じた。そして、かつて誰かに聞かされた言葉を思い出す...〈人間関係は洋服のようなものだ〉

「去年まで確かに似合っていたはずの服が突然しっくりこなくなるのは、自分の身長が伸びたり、服の系統が変わったりした結果であって、それと同じように人間関係も、自分の成長に合わせて変わっていくのが自然、という考え方だった」

   無二の親友だったのに、ある時から疎遠になる。進学や卒業、結婚などの節目で、交友関係がガラリとリセットされることはある。逆に、着なくなった服が数年後、お気に入りに戻ることがあるように、ふとしたことで交友が再開する例も珍しくない。

「やはり人間関係と洋服は、似たようなものなのかもしれない。じゃあ、いつか原くんとまた旅行に行くようなことがあったら、その時はきちんと宿を取ろうと、そんなことを考えていた」

記憶の引き出し

   旅の構想を練りながら思い出した「青すぎて若すぎる一日」 そして親友の話である。カツセさんは36歳だから、明治大学に在学していた時代はそれほど昔ではない。ただ一般的に、大学を出て30代半ばまでは たいてい仕事や恋愛をはじめ色んなことが高密度で詰まっており、青春の思い出は遥か後景に退いていることもある。

   カツセさんも親友の「原くん」を忘れていたのではなく、記憶の奥にしまい込んでいたのだろう。そして、しまい込んだこと自体を忘れていた。というより人間には、日常的に使う記憶とは別の、永久保存用の引き出しがあるのかもしれない。

   服も同じことで、普段使いのものはハンガーにかけて出しっぱなしのことがある。逆に、礼服などと共にタンスやクローゼットの奥に眠る一群もある。普段使い=お気に入りは四季それぞれ、自分の好みに応じて移ろう。

   自分の成長に合わせて変わっていくという意味で、人間関係を服の好みに重ねるレトリック。私は初見だったが、納得できる喩えである。人間関係の濃淡が変わるのは自分が薄情だからではなく 成長したから、自然の成り行きと捉えれば気も楽だ。

   カツセさんの作品は、何かを声高に主張するものではない。日常のひとこまから展開していく筆致には、どこか着古したシャツのような心地よさがある。

冨永 格

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