駅弁のエロス 中沢新一さんは 全国の地霊と交わりながら食す

   週刊現代(4月15-22日号)の「今日のミトロジー」で、中沢新一さんが駅弁を論じている。ミトロジー(mythology)とは神話のこと。全国各地の食材や調理法を詰め込んだ弁当を味わう行為は、その土地の地霊(ちれい)が育んだ食物をいただくことだと説く。連載の趣旨にふさわしい、また 宗教に通じた筆者らしい切り口である。

   本作、半ば過ぎまでは「駅弁史」などのうんちく話が続く。わが国初の駅弁は、1885年(明治18年)に開通した日本鉄道(東北本線の前身)の宇都宮駅に登場したそうだ。おにぎり二個と沢庵二切れを竹の皮で包んだ 簡素なものだった。鉄道網の発達とともに駅弁は全国に広がり、いわゆる幕内弁当が主流となる。芝居興業が栄えた江戸時代、幕間に食べる習慣ができた箱弁当で、ご飯に煮物や揚げ物を加えたものだ。

「幕内弁当は、一種の『食べる曼荼羅』であった。梅干しの大日如来を中心として、周囲には美味を誇るおかずの眷属(けんぞく)たちが、整然と配されている。その複雑な構造が...箱に収められると、そこにはえも言われぬ秩序の感覚が生み出される」

   戦後の経済成長期、駅弁には各地の名物が競うように採用され、新時代が始まる。土地の歴史や伝統との関わりが薄い幕内形式は崩れ、ご当地の食材や料理が大挙して乗り込んできた。その結果、駅弁には「地霊が育んだ食物をいただく」という新たな「思想」が加わったという。

「少し大げさすぎやしないかと、思われるかもしれないが...どんな思想でもそれは現実的事物の細部に宿るもので、逆に声高に語られる思想などには、神は宿っていない...駅弁などはほんものの思想が宿るのに、もってこいの場所である」
全国から「地霊」が集う駅弁イベント=新宿の京王百貨店で
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五感で楽しむ

「観光としての旅は、各地の風物を目に入れて楽しみ、耳に各地の水や風の音を楽しみ、鼻にほのかな土地の香りを楽しみ、温泉などがあれば肌に楽しみを与え、そしてなによりも各地の産物を舌で楽しむところに、その醍醐味はある」

   つまり、遠くから風景を眺めているだけでは「旅の快楽」は得られない。

「五感を使って、出かけた土地に身体で触れ、それを舐めたり、嗅いだり、食べたりしながら、性的なものに近い『まじわり』を持つことができたとき、初めてそれはよい旅だったといえる」

   中沢さんの解釈に従えば、様々な「まじわり」の中でも 土地の食材や料理を味わうことが重要な意味を持つ。各地の地霊が育て、化身したともいえる食べ物を摂取することにより、体内に「地霊の小片」を取り込むことになるからだという。

「駅弁はそういう旅の思想を、あの箱の中に圧縮してしめしている。幕内弁当が今日のような駅弁に姿を変えたとき、駅弁には小さなエロティシズムの思想が注入された。私たちは...ご当地駅弁をいただきながら、そこの地霊とまじわっているのである」

もう一つの霊力

   本作の表題は「地霊を食らう旅の友」である。なるほど巧いことを言う。

   中沢さんによると、日本は世界に冠たる駅弁王国で、種類の多さや食文化への浸透ぶりは他国を寄せつけないらしい。百貨店で毎年「駅弁大会」が催され、入場制限するほどの客が押し寄せるのも日本ならではの現象か。

   海山の幸と、気候や風土がしみ込んだ料理法。いわば伝統や歴史を小箱に詰めた駅弁に宿るのは、地霊そのものだと中沢さんは書く。「駅弁を開くとき、鉄道旅行者は非日常の感覚を強くかきたてられる...駅弁はその非日常感をいっそう刺激する」というあたりは、ごく常識的な記述である。そこから飛躍し、駅弁とは「食材を育んだ地霊とのまじわりだ」との解釈に至る展開には、戸惑う読者も少なくないと思われる。

   地霊とは、大地に宿るとされる霊的な存在(広辞苑)。霊の字がつくからまがまがしい語感になるが、土地の神様と言い換えれば穏やかだ。土地の神様が育てた食材や料理を器に詰めたもの、それが駅弁の文化的な意味となる。

   旅先の車中で空腹を満たすにとどまらず、異郷にいる非日常感を増幅する小道具...であれば、その土地で食さないと「まじわり」のありがたみも半減だろうか。いや、駅弁大会の肩を持つわけではないが、「旅した気にさせる」という霊力も侮れない。

冨永 格

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