ちゃんぽん劇場 松重豊さんが「奇跡」と呼ぶ半身浴の役者たち
クロワッサン(11月25日号)の「たべるノヲト。」で、松重豊さんが「ちゃんぽん」のことを旨そうに書いている。例によって、すぐには本題に入らない凝った構成だ。
「今年の誕生日(1月19日で59歳=冨永注)に傘を頂いた。立派なコウモリ傘だ。さていつ差そうか。新品の傘を早く差したくて 雨が待ち遠しかった頃を思い出す」
拡声器を鳴らして町内を巡回した傘修理業者の思い出や、貴重品だった昔に比べビニール傘の存在感がいかに軽いかといった話を挟んで、いよいよ...
「そんな傘、強風に煽られ裏返しになることがある。その状態を『ちゃんぽんになる』と言っていた...地方によっては『おちょこになる』とも言う。多分こっちが多数派だろうが 今日はちゃんぽんで通したい」
「ちゃんぽんになる」が通用するには、ちゃんぽんの存在を皆が常識として知っていることが前提だ。この郷土食が全国区になる前、おそらく本場の長崎か、松重さんの故郷 福岡を含む九州一円の言い回しだったと思われる。
裏返った傘を「ちゃんぽん」と称する理由を、松重少年や仲間たちは「浅めのちゃんぽんどんぶりに形が似ているから」と理解していた。たぶんその通りだろう。裏返った部分に雨水を溜め、友だちにぶちまける遊びもしていたそうだ。
共演NGのエビが
「懐かしんでいたらお腹が空いた。そうだ、ちゃんぽんが食べたい」...これは著者主演のテレビ番組「孤独のグルメ」でお約束の展開。パロディに違いない。
「ちゃんぽんの器は底が浅い。具がスープに浸りきっていない、言わば半身浴の状態で供される。これがちゃんぽん特有の、最後まで野菜のシャキシャキ感を損なわずに食べられる奇跡を生む」
奇跡という大仰な形容を境に、ウンチクとレトリックの連打が始まる。ちゃんぽんには〈別種のものを混ぜこぜにする〉という意味もあるが、その「語源」でもある食材の豊富さを松重流に紹介すると、以下のようになる。
「キャベツ もやし ニンジン等の野菜陣は言うまでも無く 強火で炙られアルデンテ。本来は主役であるはずの豚肉は控えめな存在で陰から支えている。牛や豚とは共演NGと噂されていた海の名優、エビ イカ アサリは己の旨味すべてを出し切って捨て身の貢献。更に海産物の援軍として、なるとやさつま揚げなどの老優も控えている」
なにやらこれも「孤独のグルメ」のナレーション(主人公の心の声)風だ。
「そして最後に主役の麺の登場だ。あの黄色い中太の汁絡みの良い彼らが 美味しいところを全て持っていく。この黄色い麺はモツ鍋においても 終盤の見せ場をさらっていく憎い奴だということを付け加えておく」
そして末尾は、読者サービスの豆知識で締めくくられる。
「ちゃんぽんが出されたら、店主にソースが欲しいと言ってみよう。普通は怒られそうな展開だが、店主はニヤリと笑って『お客さん、通だね』と言う。不思議な食べ物なのだ」
効果的な比喩
具がスープに浸りきっていない状態を「半身浴」と書き、どんぶりの中を彩る食材たちを「老優」「共演NG」「美味しいところを全て持っていく」と、芸能界に重ねる松重さんの筆致。いろんな役者が力を合わせ、ある者は陰から支え、ある者は捨て身で貢献し、ちゃんぽんという作品を作り上げる様子がユーモラスに描かれる。食エッセイの名手、東海林さだおさんを思い浮かべた。
比喩の多用はひとつ間違うと「うるさい」印象になるが、ハマれば定食における気の利いた「小鉢」のように、食(読)欲増進の効果を期待できる。
野菜がたっぷり入り、栄養バランスが良さそうなちゃんぽんは、私も大好きだ。長崎のちゃんぽんは明治中期、中国の福建省から伝来したものが中国人留学生らを媒介に広まった、という説が有力らしい。1970年代以降、リンガーハットが「長崎ちゃんぽん」をチェーン展開したことで日本中に広まった。
九州に土地勘がないわけではないが、ちゃんぽんにウスターソースをかけた経験はない。同じ長崎名物の皿うどんでは何度かやったような。郷土料理をめぐる種々の「論争」は、そこで生まれ育った人、私のように勤務地として何年か暮らした人、純然たるよそ者(できれば食通)の最低3人がそろうと面白くなる。
こうした食談議にとって、松重さんのエッセイは格好の素材だと思う。読んで楽しいだけでなく、ひとこと「参加」したくなるような不思議な後味がある。
冨永 格