銀座のバーで 角田光代さんを「正真正銘の大人」にしたその電話
「Hanako」特別編集の「銀座名店手帖。」(9月13日発売)に、「とくべつな町」と題する角田光代さんのエッセイが掲載されている。過去の「大銀座」特集などを再編集し、新たな記事を加えたムックで、銀座の185店を紹介する内容。角田さんは、ある酒場と文学賞の関係を都市伝説風に書いた。
「銀座一丁目のビルの地下に〈スタア・バー 銀座〉というバーがある。このスタア・バーで文学賞の発表待ちをすると受賞できるらしい、というジンクスが、かつてあった。そのようなジンクスは、あれこれ変わりながらまことしやかに作家たちに伝わっていく」
「発表待ち」というのは、大きな文学賞にノミネートされた作家が選考会の夕刻、担当編集者らと酒食を共にしながら結果発表を待つ習慣のこと。作家の居場所は、編集者らが選考委側にあらかじめ知らせ、吉報を待つ。
角田さんによると「ふぐを食べながら待つといいらしい」「うなぎを食べて待つと受賞するらしい」と、様々な「らしい」伝説は時代により異なる。
スタア・バーが幸運の店として語られていた頃、角田さんはある文学賞の候補者に。編集者が店を予約し、午後7時というバーには早い時分から関係者が参集した。
「ところが当時の私にはもうひとつ、個人的なジンクスがあり、それは『酒を飲みながら待つと落ちる』というもの。それまでの経験から、はじき出したジンクスだ」
もう若さは通じない
筆者は店にその事情を話し、ひとりだけアルコール抜きのカクテルを作ってもらった。8時過ぎ、バーに入った電話は作家あて...めでたい知らせだった。
「拍手のなか、ようやくその日一杯目の酒を飲んだ。親しい人に受賞を知らせるために、携帯電話を持って階段を上がり路上に出ると、銀座の町が、今までよりずっとよそよそしく感じられた」
それまでの銀座は、渋谷や新宿より静かで買い物も食事もしやすい「ただの町」でしかなかった。それが一本の電話を境に「とくべつな町」になったのだという。
「もう私は若くない、若さを言い訳にも よりどころにもできないのだと、あの路上で知ったのだと思う。私はもう正真正銘の大人なんだと思ったのだと思う」
角田さんは十年以上の時をおいてバーを訪れた。店内は海外の観光客でほぼ満員だ。
「混んでいるのに、あの日私たちが座っていたテーブルは空いていた。待っていてくれたみたいに。やっぱり銀座はとくべつな町だと、カクテルを飲みながら思った」
遊びの極み
それなりに経済力のある女性を読者層とし、いくつも関連ムックを出すなど銀座に縁が深い「Hanako」。今号のリードは、特別編集の狙いを以下のようにまとめる。
〈ハレの言葉がよく似合う銀座の楽しみはいろいろ。色とりどりのパフェや心華やぐアフタヌーンティー。老舗を訪ねれば、丹精な手仕事の数々が。いつもと違う、出会いが待っているのが銀座です。心晴れやかにしてくれる、銀座の名所・名品に触れてみませんか?〉
角田エッセイは、時にミラクルを生み、ジンクスを残すこの街の「特殊性」を作家の視点で描いた小品。2005年の直木賞をはじめ、著名な文学賞をいくつも取っている人なので、スタア・バーでの歓喜がどの賞の時なのかは定かでない。ただ、これほどの人気作家も1990年代以降、芥川賞を含めたくさんの作品が「候補作」で終わっており、やがて「酒を飲みながら待つと落ちる」という戒めに至ったのだろう。
候補者全員が同じ店で待機していたら、あるいは同じ料理を食べながら待てばと考えるだけで、この種の因縁の矛盾は明らかだ。無粋を言うようだが、文学賞というもの、皆が縁起を担ぎたくなるほど取りたいものらしい。もちろんジンクスの半分以上は洒落であり、角田さんの「断酒」のように、まじめに最善を尽くすのもまた遊びの極みである。
それぞれの陣営が準備した祝賀会の大半は、残念会や反省会で終わる。そして当夜から新たな伝説が語り継がれ、その街を「とくべつ」にしていく。
冨永 格