旧車と環境問題 下野康史さんは問う「長く乗ってもダメなのか」

   週刊朝日(11月12日号)の「それでも乗りたい」で、自動車評論家の下野康史さんが「旧車」について書いてくれた。同好の一人として嬉しい限りである。

「コロナ禍でさまざまな業種がひどい目に遭っているが、ぼくの身近では旧車専門誌もそのひとつだ。古い車の愛好家向け雑誌である」

   旧車=同時代に生きた人たちを振り向かせる旧型車(冨永の定義)。路上を走る車の多くは、かなりの希少車か、よほど余裕のあるオーナーに恵まれなければスクラップになる運命だ。旧車そのものが減っていくので、専門誌の取材機会や読者層はおのずと限られる。

   コロナ過でつらかったのは、主な取材源である関連イベントが軒並み中止となったこと。この種の専門誌は、ネタを求めて駆け回るというより、ネタが集まるスポットに定置網を仕掛けるのが常道で、「好き者の集い」がなければお手上げだろう。それでも特集で、ステイホームならぬステイガレージを呼びかける奇特な雑誌もあったそうだ。

   自動車という耐久消費財は今、歴史的な変革期にある。ガソリンから電気へ、エンジンからモーターへと動力源は代わり、自動運転技術も日進月歩。マニュアルシフトのガソリン車、それも二座のスポーツカーを愛でる私のような人間はますます少数派、どころか「SDGs社会に逆行する時代おくれ」である。ところが、ロウソクは消える直前がいちばん明るいとされるように、旧車の人気自体は高まっているらしい。

「旧車イベントに並ぶのは、オーナーの愛車だ。メーカーにとって『最良の車は最新の車』かもしれないが、いや、最良の車はオレの車だと信じる人が旧車イベントの主役である。モーターショーよりも熱量が高い」
旧車は美しい、そしてカワイイ=冨永写す
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脂の落ちた車体

   下野さんはある旧車祭で、1980年代のBMW320iに遭遇した。バブル期には「六本木のカローラ」と揶揄されたBMWだが、それだけ売れた証でもある。その車は磨き込まれて新車同然、40代のオーナーが亡父から受け継いだものという。

   「旧車はまずどんなモデルも、現行型より小さい。とくに車幅が狭い...いま見ると、すっかり脂が落ちたように感じる」...確かに昭和の車も小さかった。家族を詰め込んで行楽地を走り回る大衆車は、贅肉のない小さな車体に、小さな幸せを乗せていた。

「買い替え促進のために、古くなると自動車税や重量税が高くなる日本で、旧車に乗っている人はカッコイイ。そもそも、物を大事にするのはエコの基本じゃないの?」

   ここで筆者は、スウェーデンの環境保護活動家、グレタ・トゥーンベリさんに言及する。下野さんが見たドキュメンタリー番組の彼女は、欧州から米国に渡るのに飛行機を使わず、帆船で行く。地上での移動も米国の電気自動車メーカー、テスラの車だった。

「いったいどれだけお金がかかるのだろうか...温暖化の現場を見にアラスカへ向かう白いモデルSの空撮シーンはきれいだったが、こんな極北の地にもテスラの専用充電ステーションがあるのかと、見ていて感心した」

   若き活動家は当然、時代おくれのガソリン車には否定的だと思われる。

「グレタさんに聞いてみたい。古い車を大事に乗るのはダメでしょうか?」

これくらい許して

   下野さんの問いは明らかだ。ガソリン消費は環境の敵だが、モノを長持ちさせる行為は環境に優しい。ならば、すでにあるガソリン車に「細く長く」乗ることは環境(活動家)にとってどうなのか。滅びゆく輸送機械を大切に扱うことをどう考えるのかと。

   実際、環境保全の活動に賛同し、グレタさんを支持する旧車好きもいるはずだ。私も実車こそ持っていないが、そんな一人である。下野さんの言う「脂が落ちた」車体に身を委ね、そろりそろりと転がしているオーナーは多い。

   彼らの本音は「ささやかな趣味なんです。これくらい許してよ」だろう。

   仕事でも遊びでも、長く同じ車に乗っていれば情が移る。一心同体とまではいかなくても、家族の一員のような存在になる例は多い。メンテナンスの費用がかさむ旧車を、その余裕のあるオーナーたちが乗り継いでいく。すっかり自動車大国となった日本に、専門誌が成り立つほどの旧車文化が根づくのは自然な成り行きだろう。

   さて、長くてあと10年、ドライバーとしての私はガソリン車たちと一緒にクルマ社会から退場することになる。残るのは穴の開いた免許証と、記憶の中の愛車たち。懐かしい顔との再会を期待し、新刊の旧車誌を繰る...なんて素敵なエコ老後だろう。

冨永 格

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