ワクチンパスポート 大江千里さんが伝えるNY市民の建前と本音
ニューズウィーク日本版(9月14日号)の「ニューヨークの音が聴こえる」で、NY在住のミュージシャン 大江千里さんが、かの地のコロナ最新事情を伝えている。
「携帯電話に3回目の新型コロナワクチン接種の知らせが来た。日程への言及はなく、まずは免疫不全の人を対象に接種開始ということだ。この案内文を読む限りでは、一般に回ってくるには時間がかかりそうだ」
大江さんは今年2月、モデルナ製の2回目を打った後にアナフィラキシーショック(呼吸困難や血圧低下などの急激な副反応)を経験し、3回目には迷いがあるという。
「もちろん打つだろうが、その後は誰かにそばにいてもらう。1人で夜を越すのはあまりに危険だ。でもはっきり言って、3回目を打たないと社会生活は厳しくなるだろう」
社会生活が厳しくなると筆者が考える理由は、ワクチンパスポートの義務化である。8月半ばから、飲食店やジム、娯楽施設などに入るには接種証明が必要になった。
ホテルのバーに寄った大江さんも提示を求められた。「ワクチンは2回受けたがパスポートは作っていない」と明かすと「きょうは目をつむるが、9月13日からは本格的に罰せられるのでダメだよ」と警告されたそうだ。一方、所用で訪れたレコード会社は、マスク着用には厳しかったが、パスポートは求めなかった。
「コロナ事情は日々変化しているので、来週あたりはもっと厳しくなっているかも」
社会の断絶
コロナやワクチンについては米国にも様々な意見があり、対応は十人十色だ。大江さんの友人は「国と企業がズブズブなので接種する気になれない。治療薬の市販を待つべきだ」とノーマスクで力説した。バイデン政権への批判を打たない理由にする人もいる。
「安全性の立証が不十分と答える人もいれば...政府への不信を挙げる人もいる。事実だけを語れば、ワクチンは重症化を食い止めることができるし、死に至る可能性をかなり低くするわけだから、受けたほうがいいのは明白だ」
大江さんは同時に、受けたくない人の意思も尊重されるべきだと考える。
「NYでは公の場所で打ったか打っていないかという会話はタブーだし、それによって差別されてはいけないという風潮がはっきりとある」
さすがにリベラルな街だと感心したが、それはあくまで建前らしい。
「実際のところは、『打っていない人が社会生活に交じることへの懸念が大いにある』のが本音だ。心の中での『なぜ打たない?』という思いは、多くの接種者には当然あるとは思う」
大江さんは急かされるように、自分のワクチン証明をネットでデジタル化した。
「3分あればできる。携帯にこれが入っていれば安心だ。おそらく打っていないと今後は社会生活で不便さが増すだろう。そうなると社会の断絶は進む」
「自由の街」でさえ
大江さんは61歳。関西学院大在学中の1983年にシンガーソングライターとしてデビュー、渡辺美里や松田聖子らにも楽曲を提供した。2008年に渡米し、ジャズピアニストとして活動している。ニューズウィークでの連載は今作で23回目となる。
かれこれ2年近くなる人類と新型コロナの戦い。多数の死者を出した欧米は国を挙げてワクチン接種に取り組み、いいところまでいきながら、行動制限の緩和と感染再拡大を繰り返している。一進一退の状況の下、感染を抑えながら経済をどう回すかが各国共通の課題である。ワクチンパスポートはそんな試みのひとつ。日本でも年内をめどに、飲食店での飲酒や国内旅行の「許可証」として、デジタル化のうえ導入が検討されている。
大江さんの報告は、現地の最新事情を知るうえで有益だ。ファクトだけなら日々のニュースで知ることができるが、住民の本音と建前はその社会に飛び込まなければ見えづらい。ニューヨーカーたちが差別を戒めながら、実は未接種者が交じる社会を嫌がっているという観察は、外からではうかがい知れないものだ。
強い副反応を経験したにもかかわらず、3回目を「もちろん打つだろう」と言い、ワクチン証明を急いでデジタル化する大江さん。あらぬトラブルへの不安と、社会からのプレッシャーを窺わせる。「自由の街」NYでさえそうなのだ。もともと同調圧力が強い日本でどんな分断が起きるのか、東京の足元から聴こえる「音」に耳を澄ませたい。
冨永 格