東京五輪閉会式「コロナ禍」での演出 64年大会で始まった「平和の行進」あるか

   新型コロナウイルスが急拡大する中で繰り広げられてきた東京五輪も2021年8月8日、閉会式を迎える。開会式と共に、五輪のメーンイベントとなっている。しかし、4日には週刊文春が、「東京五輪閉会式で『天皇も参加する〇×クイズ』演出案があった」ことを報じるなど、相変わらず不安定要素が漂う。

   演出家の交代に加えて、コロナ禍。これまでの閉会式とは様相が異なることになるかもしれない。

閉会式が行われる国立競技場
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観客も巻き込む予定だった

   五輪のすぐ後には、パラリンピックが控えている。大会の組織委員会は両者を一体のものとしてとらえている。「TOKYO2020」のウェブサイトに、基本コンセプトが記されている。五輪開会式が「起」、同閉会式が「承」、パラリンピックの開会式が「転」、同閉会式が「結」となっている。二つの大会の開会式、閉会式を「起承転結」という形で結び、つながりを持たせて意義をアピールしようとしていることがわかる。

   4年前にまとめられた五輪の最終コンセプト案には以下のようなことが記されている。

「閉会式は、競技で闘いを終えたアスリートが、国や種目を超えて交流し、友好を分かち合える場にしなければならない。アスリートの労をねぎらうことはもちろん、心が解放されたパーティーのように、開放的な雰囲気の式典にしていきたい」
「アスリートだけでなく観客も巻き込み、会場を一体化する」
「その熱気と興奮を、続いて開催されるパラリンピックへと引き継ぐ」
「次の世代に受け継いでいくべき価値を示す」。

   しかしながらコロナ禍で無観客になったため、当初のコンセプトも大きな変更を強いられている。

「競泳ニッポン」の立役者

   閉会式の盛り上がりに不可欠なのが、「平和の行進」だ。大勢の選手たちが、国籍も性別も肌の色も関係なく、腕や肩を組みながら一団となって会場になだれ込んでくる。五輪閉会式のフィナーレを飾る、最も感動的なイベントとして定着している。「東京方式」とも言われる。実はこのスタイルは1964年の東京五輪で始まったものだという。

   そのいきさつについては、NHKスペシャル取材班『幻のオリンピック――戦争とアスリートの知られざる闘い』(小学館)が詳しい。

   「仕掛け人」になったのは当時、開閉会式典の責任者を務めていた松澤一鶴だ。松澤は東大の学生時代から競泳選手として活躍し、卒業後は水泳界の指導者に。戦前は日本代表チームの監督。1932年のロサンゼルス五輪、36年のベルリン五輪で金メダルを量産して「競泳ニッポン」の名を世界にとどろかせた。戦後は64年の東京五輪開催を主導した田畑政治(NHK大河ドラマ「いだてん」の主人公)の知恵袋的な存在だった。

ハプニングは作られていた

   天皇皇后が出席された64年の閉会式。本来は、整然と厳粛に行われる予定だった。ところが五輪が始まり、終盤に近づいたある日、スタッフのミーティングで、記録映画の撮影を担当している市川崑監督が突然、「もっとくだけた、各国選手が互いに打ち解けたような、競技を終えてリラックスした選手の姿を撮りたい」と注文をつけた。奇想天外な演出は考えられないか、と言い出したのだ。

   賛同の声はなかったが、その様子を黙って聞いていた松澤が一計を案じた。数人のメンバーにのみ、隠密計画を伝えた。

   閉会式当日、選手たちは入場口の外で整列する。その列が乱れないように、各国選手団の間にロープが張られる。20メートルほどのロープは、鉤型フックのついたポールに引っ掛けて張られている。そのフックを直前にはずそうというのだ。さすがにメンバーの一人は、本番で実行するとき手が震えたという。結果は、大成功だった。

   公式的には「ハプニング」とされたが、実は意図して行われたものだった。

無力を感じた

   64年の東京五輪は「苦い過去」を背負っていた。40年にも「東京五輪」が予定されていたが、日中戦争が拡大し、「国家の一大事にスポーツなんかにうつつを抜かしている場合か」という軍部の返上論にスポーツ関係者は押し切られた。戦後最初の48年のロンドン五輪に、日本とドイツは参加を認められなかった。松澤は開催日に合わせて、神宮プールで日本選手権を開催し、400メートル自由形や1500メートル自由形で、古橋広之進らがロンドン五輪の優勝タイムを大幅に上回るタイムを出した。海外通信社が世界に打電し、五輪に参加できなかった日本は溜飲を下げた。

   水泳指導者だった松澤は戦争で多くの教え子を亡くした。「沖縄では慶応の児島、インパールでは立教の新井、硫黄島で亡くなったのは河石・・・私はそれを止めることもできず、ただただ無力さを感じた・・・これから水泳界を担う選手、自分の弟子たち、後輩がたくさん死んでいった」――後年、酒が深くなると、そう言って涙を流すことがあったという。

戦前は「戦争への行進」

   1940年東京五輪と2020年東京五輪。同じく予定が狂ったとはいえ、二つの東京五輪には大きな違いがある。40年の五輪は、出場するはずだった選手たちが召集され、兵士として戦い、戦死した。命まで捧げることを強いられた。

   64年の五輪閉会式の会場となった国立競技場は、戦前の明治神宮外苑競技場。43年には学徒出陣の壮大な式典が行われた場所でもあった。松澤はそのとき観客席にいて、教え子たちが行進する姿を見送った。何もすることができなかった。

   戦前、「戦争への行進」として使われたその場所を、松澤は64年の東京五輪の閉会式で、国籍も肌の色も関係ない「平和の行進」の場としてよみがえらせたのではないか――。NHKスペシャル取材班はそう推測している。

   コロナ禍で「密」を避けることが強いられている今回の東京五輪。果たして「平和の行進」はあるのだろうか――。

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