欧州中に名声とどろかせたロッシーニ 15歳になるまで本格音楽教育を受けたことがなかった
日本の4月は新年度、新しいことを始める人が多い季節です。自分は何に向いているのだろうか、将来何になるのだろうか?という疑問を持ちながら、多くの人がとりあえず目の前の課題をこなしていく・・・そんなところが日常の風景ではないでしょうか。
クラシック音楽史は「神童」だらけ
先週とりあげたモーツァルトは、神童として名高く、5歳で作曲をはじめ、6歳でマリア・テレジアの御前でチェンバロ演奏を披露したりして活躍しました。父が音楽家で息子の才能をいち早く見抜いていたため、ごく小さい頃から英才教育を施したからです。
クラシック音楽史の中で、「神童」として記憶されている人たち・・モーツァルトはもちろんその筆頭で、他にメンデルスゾーンや、サン=サーンスが挙げられますが・・・は、いずれも、音楽の早期教育を、それも良質なものを受けており、環境に恵まれた例ということができると思います。
今日は、逆に、大変高名な作曲家になったのに、早期教育と縁がなかった人物をとりあげましょう。全盛期には、かのベートーヴェンを凌ぐ名声を獲得し、彼も実力を認めざるを得なかったイタリア人、ジョアッキーノ・ロッシーニです。
父はアマチュアの金管楽器吹き
ロッシーニの父ジュゼッペは、本職は食肉処理場の管理人でしたが、アマチュアの金管楽器吹きであり、母アンナは美しい声を持っていました。しかし、北伊のアドリア海沿岸のペーザロにジョアッキーノが生まれたとき、伊の政治状況は、彼らを運命の激動の中に放り込むのです。すなわち、教皇領であったペーザロは、北の国オーストリアの支配下にあり、同時にナポレオンという英雄が現れた仏軍にも狙われる状況にあったのです。
自由を愛し血気盛んな彼の父はナポレオン心酔者で、直接の原因は別でしたが、一種の政治犯のような形で、投獄されてしまうのです。4歳の幼いジョアッキーノを抱えた母はボローニャに出て自分の母、すなわちロッシーニにとっては祖母に子供を預け、地元のオペラ・・というより旅回りの一座といったほうが良い劇団に参加するのです。仏軍が侵攻してきて、父は獄中から解放されたものの、すっかり生気をうしなっていたので、母は彼も劇団に誘うのでした。
「音階を見ると吐き気がする」
当然、両親からほって置かれたジョアッキーノは音楽英才教育どころか正規教育さえまともにうけられず、大の学校嫌い、しかも科目の中では音楽がもっとも嫌い、というやんちゃな少年になりました。「音階を見ると吐き気がする」という旅の途中の両親に送った手紙さえ現存します。
ロッシーニは食通で後年有名になりますが、ボローニャはソーセージで有名な街でもあります。学校をドロップ・アウトし、まかないでソーセージが食べ放題という食肉店に奉公にでます。しかしそこも長続きせず、次に弟子入りしたのが鍛冶職人でした。ところがこれがとんでもない厳しい職場だったため、「学校のほうがまし」と思い直したジョアッキーノ少年は、学校に戻ることになります。
学校に戻ってみると、あら不思議、彼の得意科目は音楽ということになりました。自分が良い声をもっていることに気づいて、歌を勉強し、両親は、あいかわらず劇団で働いていましたから、その劇団で歌ったり、教会の合唱隊に参加してオルガンも習ったり、同時に父の楽器であるホルンを習ったり、チェロも弾けるようになったのです。劇団で時には子役として出演し、普段はチェンバロやチェロを弾くアルバイトもするようになったのです。
恐ろしいほどの「早書き」
器用に楽器を扱うようになった息子を見て、父は、演奏旅行に連れて行こうかと思いましたが、すでに彼は13歳、「神童」の時期はとっくに過ぎていました。しかも支配者が度々入れ替わる政情不安の北伊では、お客の層も人数も限られています。
音楽の神童・・となるチャンスは永遠に失われましたが、本人の音楽への情熱は、「あるもの」に触れたことから燃え上がり、彼は15歳にしてボローニャの音楽学校に正式に入学して、正規の音楽教育を受けることになります。「あるもの」については、また回を改めて取り上げましょう。
そのわずか3年後、18歳のとき、プロのオペラ作曲家としてデビューし、その後は恐ろしいほどの「早書き作曲家」として、数々のオペラを量産し、ヒットメーカーとなります。23歳のときにはすでに16作のオペラを完成し、ナポリのオペラ劇場の音楽監督になるという活躍ぶりで、34歳でパリで引退するまで文字通り、仏皇帝ナポレオンと比較されるぐらいの圧倒的な名声を欧州に轟かすのです。
音楽の才能が一気に開花した例・・と言えるかもしれませんが、そんなロッシーニは決して「神童」ではなかった、というお話でした。
本田聖嗣