「ピアノ協奏曲 第12番 Kv.414」 ウィーンで期待に胸を膨らましていた天才モーツァルトの仕事
日本の春は桜の季節、そして4月は新年度の季節です。新しい学年・学校・会社など、自分の接する社会が大きく変わる機会でもあります。
今日は、天才モーツァルトが、期待に胸膨らませながら書いた、新鮮な息吹を感じることのできる曲を取り上げましょう。「ピアノ協奏曲 第12番 イ長調 Kv.414」です。
父の束縛から離れる
彼がこの曲を書いたのは1782年、26歳のときで、完成した季節は残念ながら秋ですが、彼にとっては、やる気がモリモリ湧いてくる状況でした。すなわち、前年の1781年、生まれ故郷のザルツブルグの雇い主だった大司教と決別し、翌年、父親の反対を押し切る形でコンスタンツェと結婚しました。それは、よくも悪くも幼少時代から面倒を見てくれた父の束縛から逃れる、ということでしたし、実際にザルツブルグの職を離れられない父を同地に残して、音楽の都、帝都ウィーンにモーツァルトは新居を構えたのでした。
とはいえ、父と仲違いしたわけでなく、ザルツブルクの彼へ書いた手紙から、この曲の周辺を探ることができます。ピアノ協奏曲は同時に3曲企画され、この第12番が最初にできあがったらしいこと、そして3曲とも公開での演奏会を前提としていた・・つまりウィーンの聴衆に自分の実力を問う気持ちだったこと・・・、そのために、「難しすぎるものとやさしすぎるものの中間にある」と手紙には書いてあるのですが、アマチュアにも、音楽に精通した人たちにも気に入ってもらえるようなスタイルで作曲した、ということもうかがいしれます。さらには、音楽の父バッハの息子で、ロンドンで世話になったヨハン・クリスティアン・バッハが元日に亡くなったという悲しい知らせが入っていたので、彼のオペラ「誠意の災い」序曲を第2楽章の冒頭にオマージュとして転用している、という機知に富んだこともやっています。
「手堅く売る」ことを念頭に作曲
そして、ピアノ協奏曲ですから、ピアノをソロに、通常管弦楽がバックで伴奏するわけですが、編成は管楽器を省いても・・つまり弦楽アンサンブルのみでも演奏可能にしてあります。そのために、ピアノの左手パートを強化してあったり、まだ若いモーツァルトの円熟ぶりがうかがえる構成なのですが、このことは、同時に「売れるためにはどうすればよいか」という配慮があったともいえ、一般的に「芸術家肌だけれどお金の計算はさっぱり」、という従来のモーツァルトのイメージとは逆のような気がします。実際に、予約販売という当時のスタイルで、かなり「手堅く売る」ということを最初から念頭においていたようです。
後世の傑作に引けを取らない
しかし、その作品も決して惰性で作らず、構造は幾分シンプルなものの、もっと後の傑作ピアノ協奏曲たちと比べても一歩も引けを取らない新鮮さ、完成度をほこっています。
しかも、ウィーンに出てきたばかりの新婚モーツァルトはやたらと忙しく、朝から昼過ぎまでは食事も取らずに生徒のレッスン、1時間ほど食事休憩した後、夜は演奏会に出演したり、顔を出さなければいけないことも多いので、その前の僅かなスキマ時間・・・みたいな状況で作曲されていたのにも関わらず、です。
子供時代から作曲・演奏と一流のクオリティで教育と訓練を受けてきたモーツァルトにとっては「当たり前の仕事」なのかもしれませんが、しみじみとこの曲を聴いてみると、やはり天才の仕事だなあ・・・と感じざるを得ません。
4月の新年度に聴きたい、勇気あふれると同時に優雅でもある、モーツァルトの傑作です。
本田聖嗣