林部智史、「まあだだよ」
「歌」だから伝えられる思い
タケ×モリの「誰も知らないJ-POP」
「歌唱力」というのは、カラオケボックスで出る点数のような代物ではないことは自明の理だ。楽譜通りに歌えばいいとか感情移入して盛り上げればいいというわけでもない。
先月発売になった林部智史の3枚目のアルバム「まあだだよ」は、本来的な意味での「歌唱力」を問われるアルバムだと思った。
楽曲提供の小椋佳は新アルバム「もういいかい」
林部智史は88年生まれ、2016年のデビューシングル「あいたい」は、「今もっとも泣ける歌」としてロングセラーになり年末の音楽賞の新人賞を軒並み受賞した。ポップス系のオリジナルアルバムとは別に日本の唱歌や童謡などを歌い継ぐ「叙情歌」のアルバムもシリーズ化している。
そうした彼の活動の中でも「まあだだよ」は、未経験のアルバムだったことは容易に想像がつく。アルバムの曲をシンガーソングライターの大御所、小椋佳が書き下ろしている。
1971年デビュー、「シクラメンのかほり」や「愛燦燦」などのヒット曲も数多い。そうした音楽活動が銀行員としての勤務と並行する「二足のわらじ」だったことでも知られている。今年はデビュー50周年、更に77歳。林部智史の「まあだだよ」と同じ日に彼自身のアルバム「もういいかい」を発売している。そこには「ラストアルバム」と銘打たれている。
つまり二枚は対のように連動しているアルバムだった。
シンガーソングライターは自分で詞も曲も書いて自分で歌う人だ。彼らが他の歌い手に曲を提供する時には共通するパターンがある。
それは「自分では歌えないもの」だ。
たとえば、自分の音域では歌えないものやイメージに合わない曲。「内容」もそうだ。自分で歌うと過剰になったり意味が強すぎたりするもの。林部智史に提供した曲もそうした例と言っていいだろう。
林部智史は、筆者が担当しているFM NACK5のインタビュー番組「J-POP TALKIN」でこう言った。
「普段使わない言葉や歌ったことのない言葉があって、それをどう自分のものにしてゆくかはかなり時間がかかりましたね。カバーの時は、一つのお手本があるんで自分なりの解釈を出しやすいんですが、今回はそれがありませんでしたから、一つの曲を何百回も歌って判断してゆく。セルフプロデュースの難しさを感じました」
彼が小椋佳を知ったのは、「いい曲だなあと思った曲の作者」としてだ。彼が音楽学校に入ることを決めたのは、そこの卒業生だったEXLIEのATUSHIが歌う「愛燦燦」でもあった。2018年2月にジョイントコンサートで一緒になったことがきっかけで曲の依頼が実現した。最初に送られてきたのが「愛の儚さ」と「命 活かしましょう」の二曲だったという。
「愛の儚さ」は「愛の儚さ 愛の危うさ 人のこころの移ろい哀れ」と始まっている。「命活かしましょう」は「永い 永いように見えて短い人生」で始まっている。
愛の儚さ、そして、人生の長さ。それは77歳の小椋佳にとっての実感であり真実、ということになるのだろう。それを自分で歌わずに32歳の林部智史に託す。彼自身の言葉としてではなく「美しき人生の歌」として普遍的なものにする。77歳が32歳にバトンタッチした「人生観のアルバム」だと思った。林部智史の丁寧で繊細な歌唱が、小椋佳の「遺言」のような言葉を「無心の歌」に浄化していた。
アルバムに込められた「隠れテーマ」とは
林部智史の話を聞いていて、一つだけ意外だったことがあった。
「もういいかい」と「まあだだよ」は。当初から連動したものとしてあったのではなかった。「まあだだよ」の中の二曲「ラスピラズリの涙」と「僕の憧れそして人生」は小椋佳も自分のアルバムで歌っていることや小椋佳のアルバムのタイトルが「もういいかい」というのもアルバム制作中に知ったそうだ。
「まあだだよ」というタイトルや、唯一の彼自身の曲は、そのことを知ってから書き下ろしたものだった。「まあだだよ」という言葉は、世界的な映画監督、黒沢明の遺作のタイトルでもある。タイトル曲「まあだだよ」は、アルバムのボーナストラックに入っているのもそういう理由だった。
こんな歌詞がある。
「わたしにどんな希望を抱き
わたしにどんな夢を見るのか
今全てはわからない
ただあなたに認めてほしくてそれだけで」
これは誰に向けたのだろう、と思った。
自分に曲提供してくれたたシンガーソングライターに対してのものなのだろうか。
その後には確かにこうもある。
「大きな背中を追いかけて
時代(とき)のしおりを探しながら
なたが残した言ノ葉に
寄り添いながら歩みたい」
小椋佳への感謝を込めたアンサーソングのようではあるものの、それだけなのだろうか、と思った。彼は「実は、隠れテーマは父親なんです」と言った。
「小椋さんとは比較にならないんですが、自分の父親も銀行員だったんです。今回、小椋さんとのやりとりは会話も楽譜もなくて歌を通してだけだった。父親とも会話は多くなかったですし。このアルバムは送ってありますけど、いつか気づいてくれればと。あなたを思って書きましたとは言えませんから(笑)。歌だから言えることがあると改めて思いました」
林部智史は、礼文島ホテルで働いている時に友人の強い勧めで歌手になることを決めて上京、アルバイトをしながらオーディションを受け続けた時代がある。礼文島に行く前は沖縄で働いていた。
山形出身の彼が沖縄に行ったのは「故郷から一番遠い所」だったからだ。人生の挫折をめぐる親との確執。「まあだだよ」は、ようやく伝えられた彼の率直な気持ちだったことになる。彼は「父がコンサートを見に来てくれる日が来るといいんですが」とはにかんだように言った。
77歳のシンガーソングライターが音楽人生最後に託した言葉と32歳が父親に伝えられなかった思い。林部智史の「まあだだよ」は、二人にとって「歌だから言えるアルバム」だった。そこに「技術としての歌唱力」はもはや不要だ。
(タケ)