土地の記憶を知る
■『地形と日本人 私たちはどこに暮らしてきたか』(著・金田章裕 日経プレミアシリーズ)
評者の場合、普段「景観」という言葉を使うことはそれほど多くなかったように思うし、「景観」と「風景」との違いを意識することもほとんどなかったと思う。しかし、著者によると、両者の言葉の由来は全く異なるという。もともと景観の語は、ドイツ語の「ラントシャフト(landshaft)」の訳語として使われ始めたのに対し、風景は、日本語として古くから使われてきた言葉だという。
風景の語が個人的な印象などを通した意味合いで使用されることが多いのに対して、景観の語は、通常、対象を客体として表現する際に使われ、その客体を説明したり分析したりすることが可能となるという(このあたりは著者の「景観からよむ日本の歴史」岩波新書による)。
そして、景観には、人が関与していない、自然の力(営力)によってできた「自然景観」と、何らかの人の力が加わった「文化景観」の2種類があって、日本は人口密度が高く、歴史も長いので、純粋な自然景観は極めて少なく、ほとんどが人の手の入った文化景観となるのだそうだ。
堤防を築くと水害が起こる
本書は、私たちが暮らしてきた日本の地形、特に平野の地形を、景観全体の変化を分析する「景観史」の見方から読み解いていく。古くからの文書・絵図や近現代の地図を用いながら全国各地の過去から現代までの具体的な事例が紹介される。話題は時間と空間の広がりの中で多岐にわたり、歴史地理学の面白さを教えてくれるが、同時に、人の営みと災害との関係を改めて考えさせられるものでもある。
我々の多くは平野部、あるいは低地に暮らしている。日本の低地は、海水準(陸地に対する海面の高さ)変動の影響もあるものの、ほとんどが地質学の区分「現世」において、河川が土砂を堆積してできた平野の一部だという。人の手が加えられていない河川の洪水や氾濫で河道近くに形成された微高地(「自然堤防」)に人々が住み着き、その後ろの低湿地(「後背湿地」)に田を開いて、平野の地形の自然景観が文化景観へと変わるのがひとつの基本的なパターンであった。
そうして住み始めた人々は、はじめは洪水の被害を受け入れるしかなかっただろうが、次第に堤防を築く技術をもつようになる。近世まで一般的だった霞堤(筋違い堤、信玄堤)は、雁行状に不連続に築かれて増水した河流を堤の切れ間から水田地帯に導くことで、洪水を一定程度受け入れつつ被害を軽微にした。自然景観に手を加えて文化景観に変えつつ、機能的には自然景観のもっていた機能に通じるところがあった。
しかし、築堤技術の向上に伴って現代主流となっている連続堤は、堤防の内と外とを明確に区分した。文化景観が大きく変化したわけだが、増水が堤防を越えたら水害発生ということになるし、また、万が一堤防が破綻した場合には大水害に結び付きやすくなっている。筆者は、氾濫を防ぐために人々が河川に堤防を築くと、かえって水害が増大する、という皮肉な結果となったと指摘する。
人がつくった土地もある
本書では、自然がつくった地形(自然景観)を人間が手を加えて利用している場合(文化景観に変えた)のほか、土地そのものを人がつくった場合(はじめから文化景観)も、ひとつのテーマとしてとりあげられる。有明海や児島湾、琵琶湖周辺の付属湖や八郎潟のような潟湖の干拓地、東京湾や大阪湾の埋立地、整地して作られたニュータウンや工業団地などだ。
こうした土地は、社会や経済に果たした役割も大きかったが、他方では、環境改変の影響や圧密による地盤沈下、地震や津波など不測の事態が生じた際のインフラ等への影響などが心配されることになる。
土木や建築技術の進歩で人の生活範囲は大きく拡大した。構築物は安全で強固なものとなり、想定されるリスクが洗い出され、一定の備えも行われていると、我々はつい安心してしまうところがある。しかし、近年の自然災害は、想定を超える、あるいは想定外の事態があっさりと起こり得ることを教えてくれた。川沿いの高層マンションや鉄道の車両基地の浸水、湾岸地域の液状化などの映像は、大きなインパクトがあった。
筆者は、土地には、堆積や浸食などの地形変化をはじめ、地震や山崩れなどの災害の痕跡などが刻み込まれているという。人間が作った土地では、土地造成の経過も刻み込まれていることになる。それほど広くない国土で上手に土地を活用し、かつ災害と向き合うためには、正確に読み取ることは難しくても、その土地の記憶を知ろうとすること、その景観はどのような経緯でそこにあるのか、そういったことも考えてみようとする姿勢をもつことが大切なように思われる。
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