「体操ニッポン」金メダルの先へ 米田功は若手の育成に挑み続ける

【特集・目指せ!東京2020】

   1998年のNHK杯で個人総合優勝。99年には全日本学生選手権個人総合優勝、さらに全日本選手権の鉄棒で優勝を果たした米田功氏。

   誰もが、初出場となるオリンピック、2000年のシドニー五輪で躍動すると思っていた。

   だが、大会前のNHK杯で結果を残すことが出来ず、シドニー五輪代表を逃すことに。ここから米田氏は変わった。(インタビュアー・石井紘人 @ targma_fbrj

競技する米田功氏(写真クレジット:徳洲会体操クラブ)
米田功氏
体操クラブでの食事の風景
米田功氏
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シドニー五輪落選、そしてアテネ五輪で金

米田:シドニー五輪を逃したことで、私の考え方は変わりました。それまでは、いわゆるただの反抗期。「練習しなくてもどうせ結果出せばいいだろう」というスタンスでした。そして実際にやれば、できていたように思います。
そんな私は、シドニー五輪前にいつものパフォーマンスが出せなくなったのです。そうなった時に練習しようと思ったのですが、周囲から「練習するようになったの?」と言われるのが嫌で、変わるに変われなくて(苦笑)。
五輪は特別なので、もちろんそれまでよりは練習しました。ですが、急に練習したので、体が痛くなってくる。その痛みの原因は何なのか、けがなのかも分からない。休んで回復させればよいのでしょうが、自信が薄れてくる怖さもあり、休むこともできない。そうこうしていたら、完全に調子が崩れてしまいました。
五輪は、小学生時代に通っていた体操クラブの先輩方も出場していたので、「自分も将来出るものだ」と思っていました。
にもかかわらず、シドニー五輪を逃してしまって...。そして実際に五輪をテレビで見てそこで、「やっぱり努力して結果を出す人間の方が格好良い」と思うようになりました。

――それが意識改革に繋がり、2004年のアテネ五輪では男子体操日本代表の主将を務めて、団体総合で金メダル。個人鉄棒でも銅メダルに輝きました。一番印象に残っているのは、どのシーンでしょうか。

米田:団体総合決勝です。予選の方が緊張するって先輩からは言われていたのですが、私は決勝のほうが緊張しましたね。初めて全国大会に出場して、頭が真っ白になって規定違反をした時を思い出しました(笑)。
会場は満席なのですが、観客も緊張しているので、全く人がいないみたいな静けさ。雰囲気はあるのに物音はない。そのプレッシャーは最後まで消えることなくて、スタート種目のゆかでは、「ヤバイ...失敗する」と思いながら最後まで演技していました。初めての経験でした。

――そのプレッシャーの中で結果を出せたのはなぜでしょう。

米田:プレッシャーを感じていても、歩くことは出来るのと同じですね。体操競技も同じように、歩くことと同じレベルまで技術を持っていけば良いというのが持論です。私はメンタルも大切にしていますが、どんなにメンタルトレーニングしても、実力以上の力を発揮することは100%無理。それは、現在の指導に生かしています。

心から考えたアドバイスを選手に伝えたい

――北京五輪を逃した後に引退され、2012年に自身の体操クラブ「米田功体操クラブ」を設立、13年1月からは「徳洲会体操クラブ」の監督も務めています。指導者として意識されていることは何でしょうか。

米田: 文武両道は大事です。たとえば、東京大学を目指すとすると、目標を設定して、勉強しますよね。スポーツも同じです。
若い頃は能力だけで出来るかもしれません。でも今は、能力だけではトップになれない時代です。体操では、昔では考えられなかったくらいに技が高度になりました。そういった技術を習得するために、指導者の話を理解する、目標を設定してコツコツと練習するなど、「考えること(戦略)」も必要になっていきます。運動能力が高い子ほど技はすぐに出来る。しかし、考えて取り組まないと結果が出ない勉強を苦手とし、手をつけない子もいます。そういう子にこそ、考えることが必要な勉強をさせた方が良いと思っています。
私は徳洲会の創始者である徳田虎雄さんを尊敬しています。「一番心配して努力する人が組織のリーダーだ」という言葉を大事にしています。ですので、選手に適当に声をかけないようにしています。たまたま見てアドバイスするのではなく、選手のことを心から心配して考えたアドバイスを選手に伝えたいと思っています。
例えば徳洲会体操クラブでは、練習以外の過ごし方も大切にしてもらいたいと思い、選手には栄養面を意識してもらいたいと私が監督に就任すると同時に管理栄養士を採用しました。食べものによる体の変化は、ある程度時間がたたなければ実感できませんが、食事を考えることと練習することは同一線上あると思います。強くなるための練習は体育館の中だけではないことを選手には伝えていきたいと考えています。

東京五輪、選手は思い切って挑戦を

――指導者の視点から、東京五輪の展望をお聞かせ頂けますでしょうか?

米田:体操男子は前回大会のリオ五輪で団体金メダルをとったこともあり、周りは「"金"メダルとれますか」としか聞かないと思います。でも、周りの期待よりも自分の期待の方が高くないといけないと私は思っているので、その自分が思い描く期待に挑戦すれば良いだけ。思い切って挑戦して欲しいです。
地元(日本)での五輪が巡ってくるって、凄いことですよね。その奇跡的なことをプレッシャーでマイナスに考えることは、非常にもったいない。いつも通りの競技が出来れば結果は後からついてくるもの。期待しています。

――最後に、東京五輪で体操を初めて見る人たちに魅力を教えて頂けませんか。

米田:一つ一つを切り取ると、ダイナミックな技や姿勢の美しさがあると思うのですが、ミスは許されないというところに体操の魅力があると私は思っています。手に汗を握る、綱渡りを見ているように声一つ出ない雰囲気。見ていて疲れるかもしれませんが、緊張感・緊迫感を楽しめるスポーツです。
現在のコロナ禍で、なかなか選手に声援を送りづらい状況です。一方で、SNSで積極的に情報発信を始めた選手がいます。みなさんが「いいね!」やコメント投稿をするだけでも、選手は励みになります。選手のSNSなどを見るだけでなく、ポジティブなリアクションをしてみてはいかがでしょうか。

米田功(よねだ・いさお)
1977年8月20日生まれ、大阪府出身。
7歳から体操を始め、全国中学生大会で個人総合優勝。清風高校時代にインターハイで個人総合2位。順天堂大学に進み、順調なキャリアを歩んでいく。
だが、2000年のNHK杯ではまさかのシドニー五輪代表落選。
その雪辱を晴らし、2004年のアテネ五輪では日本男子体操のキャプテンとしてチームを牽引。団体で28年ぶりとなる金メダルを獲得。種目別の鉄棒でも素晴らしい演技を見せ、銅メダルを獲得。
惜しくも2008年の北京五輪では代表の座を逃し、同年5月6日に引退を表明し、指導者を目指すと宣言した。
2009年からメンタルトレーナーとしての活動をスタート。2012年には自身の体操クラブである米田功体操クラブを設立。 2013年1月からは、徳洲会体操クラブの監督として、指導者としての道を歩んでいる。

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