イタリアの太陽と民謡に影響されて、陽気な「イタリア奇想曲」
12月に入り、一段と日が短くなってきました。気温の低下も冬を感じさせますが、人間は視覚情報に多く影響される動物なので、やはり「暗い時間が多くなった」ということがより一層厳しい季節の到来を感じさせるのかもしれません。
今日は、厳しい冬を迎える国、ロシアの作曲家、チャイコフスキーが、欧州の南の国に刺激された「イタリア奇想曲」をとりあげましょう。
パトロンのメック夫人
1840年生まれのチャイコフスキーは、30代に入り、充実した生活を送っていました。特に、1876年に、熱心な彼のファンである謎多き大富豪の未亡人、フォン・メック夫人から金銭援助の申し出があると、一挙に生活が豊かに安定するようになりました。パトロンのメック夫人から送られてくる金額は、勤務先のモスクワ音楽院の給料の倍ほどもあったので、彼は1878年にはサラリーマン生活をやめ、作曲に専念することができるようになりました。
一方で、1877年、彼は、気の進まない結婚をすることになります。唐突にアントニーナ・ミュリーコヴァという音楽院に学ぶ女性から告白の手紙を受けた彼は、自分が歳をとりすぎていることや、彼女との9歳という年齢差を気にしながらも、その歳のうちに電撃結婚をしてしまいます。しかし、案の定、この結婚はたった2ヶ月半で破綻し、チャイコフスキーはモスクワ川に入水自殺を試みたりもします。幸い未遂で終わりましたが。
チャイコフスキーの三十代後半は、このように私生活では激動の日々でした。
一方で、同じ時期に、たくさんの傑作も残しているのは、やはり、作曲に専念できる経済環境ができたからだともいえます。しかし、破綻した結婚のあと、心の安定を求めてか、彼の身の回りを世話してくれていた召使いが兵役のためいなくなるという事情もあったからか、チャイコフスキーはロシア国外に出ることにします。宮仕えがなくなり、自由な環境を手に入れたということも大きかったのでしょう。
冬の寒い時期にこそ聴きたい
一旦スイスに腰を落ち着けた後、欧州各地を旅行しますが、クラシック音楽の母国であるイタリアにも頻繁に足を向けます。
この辺りのことは交響曲第4番の時にも触れましたが、南の国イタリアは、やはりチャイコフスキーの心に明るさをもたらしてくれたようです。他の作品を作曲する合間に、現地イタリアの音楽的素材・・・それは、ローマで遭遇したカーニバルの音楽だったり、道端で耳にした民謡だったり、滞在するホテルで聞こえた兵舎のラッパの音だったりしますが、そういったものを織り込んだ「イタリア」を音で表現する曲を構想しはじめるのです。すでに何回もイタリアを訪れているので、おそらく彼の頭には素材は十分揃っていたのでしょうか、全体で、15~16分もかかるオーケストラの曲なのですが、1月に2週間ほどで草稿を仕上げ、5月にはオーケストラ総譜を完成しています。その年の12月にはモスクワで初演されるというスピードで世の中に披露されました。
チャイコフスキーお得意の金管の明るいアンサンブル、メランコリーさを持ちつつ歌う弦楽器や木管楽器の旋律、それらがそれぞれ「イタリアの要素」を奏で、最後は南イタリアの軽快な舞曲タランテラのリズムとともに、華々しくクライマックスを迎えるこの曲は、初演の時から好評をもって迎えられ、現在でも広く愛されています。
チャイコフスキーの心に差したイタリアの太陽が、そのまま曲に反映されているかのような「イタリア奇想曲」。冬の寒い時期にこそ聴きたい名曲です。
本田聖嗣