メンデルスゾーンの「イタリア」は英国にしばられて

   メンデルスゾーンの交響曲 第4番は、「イタリア」という愛称で呼ばれています。

   原作がヒットしてテレビドラマになった「のだめカンタービレ」でも、第1楽章がオープニングに使われていて印象的でした。北ドイツ、ハンブルクの生まれでライプツィッヒやベルリンで活躍したメンデルスゾーンがイタリアという南の国を訪れ、その明るい印象が冒頭から溢れ出していて、心も体も踊りだしたくなるような音楽となっています。

若きメンデルスゾーンの肖像
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21歳でイタリアに向かう

   第4番となっていますが、以前取り上げた交響曲 第3番「スコットランド」より前に作曲されています。出版順が逆になったからなのですが、今日とりあげるのは「イタリア」の楽譜についてです。

   作曲家はだいたい生涯お金の苦労がついてまわることが多いのですが、裕福な家庭に生まれたメンデルスゾーンにはそれは当てはまりませんでした。幼少より教養を身につけるため、音楽に限らずすべての学問を国外の優秀な教師に師事したり、音楽では若い頃から演奏の機会に恵まれたり、見聞を広める大旅行にでかけたりと、本人の才能を伸ばすには十分な環境でした。わずか38年の短い生涯でしたが、作品や演奏において、音楽史に重要な足跡を残すことができたのも、世の中に早く出ることができたため、ということが言えると思います。

   1830年、まだ弱冠21歳のメンデルスゾーンはイタリアに向かいます。19世紀英国の上流階級などの子弟も、卒業旅行として欧州を横断し、イタリアに向かう「グランド・ツアー」が流行しましたから、19歳頃から音楽活動のため、英国やスコットランドに長期滞在した彼も、それに習ったのかもしれません。ヴェネツィア、フィレンツェ、ナポリ、そして親戚が住んでいた首都ローマなどに滞在します。先輩のモーツァルトも、後輩のブラームスも、「北の人」としてイタリアを訪れ、その歴史や風光明媚さに圧倒されて作品に反映させていますが、メンデルスゾーンも楽想が湧き出し、交響曲「イタリア」の作曲に取り掛かります。

曲に複数回手を入れる

   しかし、「イタリア」が完成したのは「英国」でした。旅行中は、もちろん交響曲という大規模な曲はいかな彼でもおそらく仕上げられず、1832年に、付き合いの深いロンドン・フィルハーモニック協会から、作曲の依頼を受けて、この曲を演奏のために完成させることになるのです。初演は、1833年5月にロンドンで、彼自身の指揮によって行われます。

   ところが、メンデルスゾーンは、初演後、まだこの曲を一層ブラッシュアップしたいと思い、改訂を行います。ややこしいのは、同時にこの曲は、フィルハーモニック協会の委嘱だったため、演奏は2年間この協会の独占、と決められていたことなのです。そのため、作曲者本人の手元にも、初稿の楽譜がなかった可能性があります。しかし、その初稿は未完成だから手を加えたい、演奏しないでもらいたい・・と協会にメンデルスゾーンは連絡していて、協会の方は、「いつ改訂版は仕上がるのだ!」と返信し、一層複雑なことになりました。

   その後も複数回メンデルスゾーンはこの曲に手を入れており、中には、難航して途中で放棄気味になったり、彼が亡くなってしまい頓挫したり・・と、「勢いで書いた交響曲をあとから手を入れていく問題」が起こってしまいました。現在では、オリジナルの手書き譜から復元したもの、・・結局もとのシンプルなもの・・・が演奏に使われることがほとんどです。

   メンデルスゾーンほどの天才でも、楽想が盛り上がって勢いで書き、それを依頼に合わせて仕上げたもの・・・に対して改作したくなってしまうのは、人間的と言えるかもしれません。

   クラシック音楽は、まことに「楽譜に忠実な演奏」が求められますが、その楽譜にも、こんなエピソードがあるのです。

本田聖嗣

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