ラヴェルの1914年と「ピアノ三重奏曲」(後編)
全4楽章からなるラヴェルの傑作室内楽作品「ピアノ三重奏曲」ですが、私が、この曲は出征前のラヴェルが書き残したいわば「遺書だ」と強く感じるのは、第1楽章です。
全曲通して演奏時間は30分ほどなのですが、第1楽章は演奏時間が10分ほどもかかります。交響曲やソナタにおいて最も重要なのは、大抵第1楽章ですが、このトリオも、第1楽章が演奏時間的にも、内容的にも、この曲の「顔」とも言うべき、かなり重要なポジションを占めているといえます。
異例中の異例「8分の8拍子」
そして、奇妙なことに、この第1楽章の拍子が、「8分の8拍子」という、あまり目にすることのない拍子で書かれているのです。「4分の4拍子」とか「4分の3拍子」とか「2分の2拍子」とか「8分の6拍子」などの拍子が、ほとんどのクラシック曲には使われ、「1小節の中に8分音符が8個存在する」というこの拍子は、大変めずらしいものなのです。
しかも、最初の出だしは、ピアノのみで演奏されるのですが、その8拍は、「4+4」でも「2+2+2+2」でもなく、なんと「3+2+3」というリズムに分けられています。3拍子系統の拡大リズムで、現代音楽なら、こういった拍子を設定することも珍しくないのですが、まだ20世紀に入ったばかりのこの時期のラヴェルの作品としては異例中の異例です。ラヴェルはなにゆえ、こんな珍しいリズムにしたのでしょうか?
・・・・これは、おそらく「バスクのリズム」なのです。バスクの民謡のリズムには8拍子のものがあるそうですし、踊りのステップは独特で、「パ・ド・バスク」と呼ばれるものがバレエやスコティッシュダンスにも存在します。さらに、同時期に企画され、第一次大戦のために作曲を中断した作品に、バスクの伝統や文化などさまざまなものを織り込んでゆく曲がありました。そしてなにより、バスク人である母親のことが大好きで、自らもバスクのシブール生まれの彼は、自分の血の中にもバスクを意識していたに違いないのです。生誕地の隣町、サン・ジャン・ド・リュズでのバカンス滞在中に、この曲を書き上げたわけですから、バスクを織り込んだ第1楽章は、彼が自らのアイデンティティーをあらためて問い直した曲のように思えてなりません。
初演は戒厳令下のパリ
予定では、曲が仕上がった1914年8月末の翌週には、近くの街、バイヨンヌで徴兵検査を受けて入隊するはずでした。しかし、先週書いたように、「体重が2キロ足りなくて兵役にそぐわない」と判断されてしまいました。戦地に赴くあてが外れたラヴェルは、母親を連れて11月にパリに戻り、この曲を、楽譜商ジャック=デュランにピアノ独奏と、フル編成のトリオで2回、内々で聞かせ、彼を感激させました。
ピアノ三重奏曲の正式な初演は、パリのサル・ガヴォーで1915年1月28日、戒厳令のため通常なら20時30分に始まるコンサートの開始時刻を19時に早めた「独立音楽協会」のコンサートでドビュッシーやフォーレやデュカの作品と一緒に行われました。フォーレやサン=サーンスが設立した「フランスの音楽」を発展させるためのこの協会のコンサートも、これを最後に1917年まで、2年間もの中断となるぐらい、戦雲が身近に感じられるようになった時期でした。現在のコロナ禍のパリと同じく、22時以降は夜間外出禁止令が出ていて、メトロの運行も止まったのです。
ラヴェル自身は、1915年3月の誕生日の直後、ついに、輸送兵として従軍せよ、との知らせを受け取ります。ヴェルダンの激戦地に実際に向かうのは更にその翌年、ということになるので、「ピアノ三重奏曲」は戦地へ向かう前の最後の曲にはなりませんでしたが、(「楽園の3羽の美しい鳥」を含む「3つの歌」などを作曲しています)この曲、とくに第1楽章には、彼の祖国や、ルーツや、ファミリーといったものへの万感の想いが込められており、戦地へ赴く直前の彼の「覚悟」をひしひしと感じるのです。
フランスの11月11日は、第一次世界大戦休戦記念日として、今でも祝日となっています。
本田聖嗣