小柴さんのノーベル物理学賞 浜松の電子メーカーが支えた

   素粒子ニュートリノの観測に成功し、2002年にノーベル物理学賞を受賞した小柴昌俊(こしば・まさとし)東京大特別栄誉教授が2020年11月12日、亡くなった。その業績を支えたのは静岡県浜松市の光関連電子機器メーカー「浜松ホトニクス」の実験装置だった。

画像は浜松ホトニクスの公式サイトから
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3人のノーベル賞に貢献

   素粒子ニュートリノは「カミオカンデ」で観測された。岐阜県飛騨市・神岡鉱山地下に、3000トンの水を蓄えた観測装置だ。そこに整然と並ぶ、無数の丸い大きな眼球のような機器。これを製作したのが「浜松ホトニクス」だ。

   1979年、東京大学理学部の小柴昌俊教授から直径20インチの光電子増倍管の依頼を受けて開発に着手した。当時、世界でも類を見ない大口径の光電子増倍管だった。工業高校出身の30歳前後の若い技術者たちが、苦労して製造に成功した。小柴さんは最終講義で「浜ホトの技術があるので負けません」と同社を称えたという。

   この20インチ光電子増倍管は2014年、世界最大の電気・電子・情報・通信分野の学会IEEE(米国電気電子学会)から、ニュートリノの観測に貢献したとして、「IEEEマイルストーン」に認定された。世界的に権威ある学会からも記念碑的な評価を得たのだ。

   さらに後継の「スーパーカミオカンデ」で梶田隆章・東大宇宙線研究所長らがニュートリノに質量があることを確認。小柴さんに続き、15年にノーベル物理学賞を受賞した。

   同社が貢献したのは小柴・梶田さんの研究だけではない。02年に島津製作所の田中耕一さんがタンパク質の構造と質量を分析できる技術でノーベル化学賞を受賞したが、その分析器にも浜松ホトニクスが供給した部品が使われていた。

共産党の副委員長は親友だった

   2002年12月、宇宙線研究所と素粒子物理国際研究センターの共同主催による小柴さんのノーベル賞の祝賀会が東京都内で開かれた。多数の関係者が集まった。選ばれた数人が祝辞を述べた。その中に意外な人物がいた。共産党の上田耕一郎副委員長だ。小柴さんと上田氏は旧制一高時代の仲間で特に親しかった。

   「しんぶん赤旗」の12月27日号には祝賀会の様子が写真入りで紹介されている。

   「小柴さんは、上田さんを満面の笑みをうかべて歓迎。上田さんが『読売の読者が選んだ十大ニュースでは、ノーベル賞ダブル受賞がトップだったよ』と伝えると、小柴さんが『へえ、そうかい』と応じるなど、親しく言葉をかわしました」とある。

   上田氏の著書、『人生の同行者 上田耕一郎×小柴昌俊・鶴見俊輔・小田実対談』(新日本出版社、2006年刊)にも小柴さんが登場、「1 ノーベル賞、うれしかった」「2 東大での思い出」「3 ニュートリノと宇宙誕生」「4 平和の問題は保守も革新もない」などを語り合っている。

   先の祝賀会で小柴さんは、「今後も五年後、また五年後と、カミオカンデからノーベル賞が出ると、私は信じています。そうした、息の長い基礎研究を、みなさんどうぞかわいがってください」と語っていたが、予言通り2015年に梶田氏が受賞することになった。

   その梶田氏は現在、第30代の日本学術会議会長として、「学術会議問題」で政府とのやり取りの最前線に立っている。学術会議に6人が任命されなかった背景には、この6人の政治的スタンスがある、というのがもっぱらの観測だ。共産党の副委員長とも生涯にわたって親密だった小柴さんは、泉下でも「学術会議」の問題を気にかけているに違いない。

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