ラヴェルの1914年と「ピアノ三重奏曲」(中編)
ラヴェルの「ピアノ三重奏曲」を弾いていて、感じることがあります。
静かなテーマから始まるけれど、即座に3人で圧倒的な盛り上がりをみせ、また、ソナタ形式で書かれているものの、再現部では微妙に和音を変化させている・・などの工夫が凝らされた第1楽章。各楽器に大変高度な技巧が要求され、スケルツォ的な圧倒的テンポの速さで演奏される途中で、「弦楽器とピアノが違う拍のカウントを行い、それが重ねられる」というこれまた凝りに凝ったトリオ部を中間に挟む第2楽章。そして、パッサカイユという形式で、ゆったりと反復される低音の音形がひたすら続き、その上に巨大なモニュメントを築くがごとき盛り上がりを見せる、祈りに満ちた第3楽章。
第4楽章は、少し慌てて書いた?
これらの3楽章に対して、表面的には華やかで、盛り上がりは圧倒的なのだけれども、少し強引に終わりを迎える最終第4楽章は、「技巧的工夫」という意味では、ラヴェルにしてはあっさり・・という印象が、ぬぐえないのです。
大天才ラヴェルに対して、まことに申し訳ないのですが、率直に言うと、「第4楽章は、少し慌てて書いた?ちょっと強引にまとめた・・?」という印象があるのです。
ラヴェルは、自作曲に関しては大変な遅筆でした。彼は、ムソルグスキーのピアノ曲「展覧会の絵」を管弦楽化したのでも有名ですが、そのような他人の曲のオーケストレーションなどの編曲は迅速だったのですが、オリジナルの作曲には推敲に推敲を重ね、かなりな時間をかける方だった、と知人の楽譜出版商やバレエプロデューサーなどの証言があります。「ラヴェルにオリジナル曲を依頼するときは時間的余裕を持って頼むべし。」おそらくこれは事実でしょう。
しかし、そのラヴェルが、この大規模な「ピアノ三重奏曲」・・・全4楽章からなり、演奏には30分近くかかる大曲をたったの1か月弱で仕上げた、というのは彼にしては異例の速さです。友人のストラヴィンスキーなどにあてた手紙で、「5週間で5か月分の仕事をした」と書いています。
「遺書」のようなもの
ラヴェルは、フランスが宣戦布告した8月3日の直後、8日に入隊を志す手紙を弟に送ったあと、「そのことに反対しない、自分も志願する。」という弟の返信を14日に受け取り、月末の29日には、楽譜出版社のジャック・デュランに手紙を送り、明日の30日には「ピアノ三重奏曲」を完成させ、数日かけて清書して出版用手稿譜をつくりあげ、来週にはサン・ジャン・ドリュズ近郊の大きな街、バイヨンヌに入隊志願に向かう、と書いています。その後、印刷された校正刷りにも精力的に演奏用の書き込みを行い、彼は本当に5週間でいつもの5か月分ぐらいの仕事をしたのです。
他の企画・進行していた作品の作曲は中断したものもありましたが、ラヴェルはこの「ピアノ三重奏曲」だけは、多少強引な第4楽章だったとしても、出征前に完成させるつもりだったのです。このことからも、この曲は、ラヴェルの「覚悟であり、遺書」のようなものではなかったか、と考えられるのです。
それには、もう1つの「状況証拠」があるのですが、それはまた来週にしましょう。
バイヨンヌの街で兵隊に志願したラヴェルですが、「体重が2キロ少ない」という理由で入隊することは叶いませんでした。そのままサン・ジャン・ド・リュズに戻り負傷兵の看護などをしていましたが、結局、11月にはパリに戻ることになり、そこで、兵隊に志願しやすくなるための自動車免許を取得したり、「遺書」として書き置いてゆくはずの「ピアノ三重奏曲」の初演に立ち会ったりすることになります。
本田聖嗣