ラヴェルの1914年と「ピアノ三重奏曲」(前編)

   先週と先々週にわたって、フランスの楽譜出版社、デュランが発行したロマン派の巨匠たち・・ショパン、シューマン、メンデルスゾーンのピアノ楽譜の校訂が、それぞれ、ドビュッシー、フォーレ、ラヴェル、とその時代のフランスを代表する大作曲家たちによって行われていたということを取り上げました。これは、全世界を巻き込み、フランス本土も戦場となった未曽有の大戦争、第一次世界大戦が始まって2年目の「1915年」という奇跡的なタイミングでデュランからの依頼が各作曲家にあり、実現したものです

ラヴェルのピアノ三重奏曲の楽譜。1914年と、大きく年号が記されている
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ラヴェルの「遺書」と感じるわけ

   ドビュッシーは大戦集結の1918年に病気で亡くなり、一方、ラヴェルは、第一次大戦に従軍し、戦場に赴くことになるので、こちらにも命の危険が迫っていました。

   この時期のラヴェルについては、すでに「3つの歌」から「楽園の三羽の美しい鳥」や、「クープランの墓」で取り上げていますが、もう一つ、大変重要な作品があるのです。

   それが、今回取り上げる「ピアノ三重奏曲」。ヴァイオリンと、チェロと、ピアノというスタンダードな編成によって演奏されるピアノ・トリオですが、その規模の大きさといい、華麗な音楽といい、技巧を凝らした凝った作りといい、傑作ぞろいのラヴェルの作品の中でも白眉の作品であるだけでなく、クラシック音楽のレパートリーの中でも評価の高い名曲です。

   しかし、この曲は、私がピアニストとして演奏していて、ラヴェルの「戦時期の音楽」の中でも特別な存在だな、と感じることがありました。一言でいえば、これは、ラヴェルの「遺書」または「遺言」だと感じるのです。

   どうしてか?・・・ということを具体的に解明していきましょう。

夏のバカンスでサン・ジャン・ド・リュズに

   まず時間の経過を振り返ります。

   1910年代、フランス楽壇でのラヴェルの名声は絶頂に上り詰めていました。1911年頃から、それまでの第一人者だったドビュッシーの人気を超えた、と米国のジャーナリストが書き残しているぐらいですから、傍目にも明らかに、ラヴェルはフランスの音楽界を牽引する存在だったのです。作曲依頼や編曲依頼は途絶えることなく、ラヴェルは、自分の芸術的センスに忠実に、マイペースで作品を生み出していく状態でした。

   フランス人は、必ずまとまったバカンスを取ることで有名ですが、ラヴェルも夏は決まって故郷のバスク地方に出かけていました。パリを離れて、スペイン国境にほど近い大西洋を臨む海辺のリゾート、サン・ジャン・ド・リュズに長期滞在するのです。ここは、ラヴェルが生まれた小さな街、シブールと湾を挟んで対岸の街でした。敬愛する母がバスク出身のため、ラヴェルは、夏のバカンスでは、人気の地中海方面には行かず、いつも大西洋岸のサン・ジャン・ド・リュズを訪れていたのです。

   1914年も、6月下旬にはサン・ジャン・ド・リュズに到着していました。6月30日の友人宛ての手紙には、バスク地方のペロタと呼ばれる独特の壁当て球技や、闘牛、花火などの地元ならではの楽しみを羅列すると同時に、スペインとフランスにまたがるバスク地方の紋章である「ザスピアクバット」という名のピアノ協奏曲スタイルの曲と、「ピアノ三重奏曲」の作曲に取り掛かっていることが書かれています。

   サン・ジャン・ド・リュズの海開きは、7月1日です。海辺でラヴェルと母と、友人一家で撮影した写真が残っていますが、バカンスを楽しんでいるらしい、リラックした表情がうかがえます。

弟宛ての手紙で宣言した兵役志願

   しかしちょうど同じ頃、東欧ボスニアのサラエボでオーストリアのフランツ=フェルディナンド大公とその妻ゾフィーが6月28日に暗殺されたことによって、オーストリアがセルビアに宣戦布告をしていました。

   オーストリアの同盟国はドイツ、オスマン=トルコ帝国、ブルガリアで、セルビアを支援しようとしたロシアが軍隊に動員をかけると、それを警戒したドイツがロシアに宣戦布告。ロシアは同盟国のフランスに支援を要請し、普仏戦争の復讐に燃えるフランスはドイツの中立要請をはねつけて、ドイツに宣戦布告することになるのです。暗殺事件は、世界大戦を引き起こしてしまいました。

   フランスでは8月1日に「総動員令」が発動され、翌2日には戒厳令が敷かれます。3日にドイツの宣戦布告があり、ドイツ軍は雪崩を打って、まずベルギーに侵攻を開始したのです。8月中にフランスでは460万人を超える兵士が動員され、ラヴェルの周囲からも、続々と戦場に出征する友人たちがいました。

   もともと虚弱体質で、20歳のときの徴兵検査では不合格となったラヴェル、すでにアラフォーの39歳でしたが、こういった状況の中でいても立ってもいられず、兵隊に志願する、と8月上旬の弟宛ての手紙で宣言しています。「反対する理由がない、僕も行くからね」という弟の返信を受け取ったラヴェルは、その前に、「ピアノ三重奏曲」を完成させようと、猛烈なチャージをかけはじめます。 (つづく)

本田聖嗣

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