香りのアルバム 千早茜さんが香水からたぐるロンドンの記憶たち
SPUR 10月号に、作家の千早茜さんが「香りのアルバム」というエッセイを寄せている。編集部が頼んだテーマは「香水と旅」。千早さんは今年春、天才調香師が主人公の小説『透明な夜の香り』を同じ集英社から出しており、同誌で香りを語るには適任だろう。
「旅先で撮る写真のように、香りもアルバムに綴じておければいいのにと、よく思う。鼻の記憶はどうしてもこぼれてしまうものだから」
『透明な...』の執筆にあたり、脳と嗅覚について調べた筆者は、小説の主人公に〈香りは脳の海馬に直接届いて、永遠に記憶される〉と語らせている。それは作家自身の願いでもあるそうだ。ただ現実には、「その永遠には普通はなかなか気がつかない、ひきだしとなる香りに再び出会うまでは」ということになる。
小さい頃、アフリカに住んだ千早さん。かすかに埃っぽい乾いた空気、烈しい雨、空を紫に染めるジャカランダの花...いずれの匂いにも、日本では再会が難しい。
「昔の記憶も、昔の夢も、映像や色は頭の中で再現できても、匂いはできない...けれど、脳のどこかにしまわれていて欲しいと切に願っている。遠く離れた場所で、ときおり『ひきだし』を探している自分がいる」
コロナで自粛生活の味気なさを痛感した千早さんは、理由の一つは匂いがないせいだと気がついた。オンラインでライブを観ても、友とのテレビ通話も「無臭」である。
「家の中には、慣れ親しんだ自分の生活の匂いしかないのだ。映像と音だけの情報は重みがなかった」...おまけにマスクのせいで街の匂いまでが伝わりにくい。だからなのか、自粛中は紅茶や入浴剤、アロマオイルなどにいつも以上のお金をかけたという。
クローゼットの奥から
千早さんは鳥取に住む友人から、庭育ちのハーブをもらったことがある。ミントをガラスポットに入れてお湯を注ぐと、数年前に旅したイギリスの古いホテルが蘇ったそうだ。前の晩に食べ過ぎた千早さん。その朝食に、給仕はミントティーを用意してくれた。ボウルに山盛りのベリーを添えて。
「朝の光の中で見た、透明な緑と赤。あの朝食が旅で一番眩しかった...一人で旅をしていると、入ってくる情報量が多い気がする。嗅覚は本能的な感覚だから、人といるよりも一人きりのほうが冴えるのかもしれない。私しか知らない鮮やかな記憶たち」
同じイギリス旅行、千早さんは老舗の専門店で香水をひとつ求めた。クローゼットの奥にしまったままだったが、久々に取り出し、金色の蓋をとってみた。
「ロンドンの石畳と灰色の重い空、飴色の棚にずらりと並ぶ香水瓶が蘇る。紺に金字の看板の、憧れの店に入った時の緊張も。ひとつの香りが引き金となって次々に懐かしい景色や空気が浮かぶ。なんだ、ここに保存されていたのかと拍子抜けした」
保存されていたのはイギリス旅行の記憶、ここでの「ひきだし」は香水瓶だ。
「前のように自由に渡航できる日々が戻ってきたら、旅するごとに香水瓶を持ち帰ろうと思った。少々値が張るアルバムだけれど」
地下鉄駅に漂う匂い
集英社のモード誌SPUR(シュプール)は1989年の創刊。女性のファッションやライフスタイルに関する情報を発信している。中心読者の20~40代は香水の主要購買層でもあり、千早さんの文章の前後ではシャネルなどの高級商品が紹介されている。
北海道出身、41歳の千早さんは2008年に『魚神』(小説すばる新人賞、泉鏡花文学賞)でデビュー、直木賞候補にも二度選ばれた。
匂いと記憶の関係については、硬軟いろんな論考がある。匂いを手がかりに、前後の思い出が芋づる式に蘇る...誰しも経験することだろう。
私はブリュッセルに再赴任した1998年末、こんな「特派員メモ」を書いた。
〈低い空、冷たい雨。肩をすくめて薄暗い地下鉄の階段に駆け込めば、駅の売店からワッフルの甘い香りが流れてくる。三年ぶりに赴任したこの街は、三年前とそっくりそのままの感触で迎えてくれた〉
感傷的なクサイ書き出しだが、実際、職場に近い地下鉄シューマン駅に漂う砂糖とバターを焦がしたような匂いは、初の海外勤務をウルウルと思い出させる「ひきだし」だった。言葉に四苦八苦しながら、家族ぐるみで異文化と格闘した日々が蘇るのだ。
千早さんは、編集部から与えられた「香水と旅」というテーマを、香りと記憶を巡る個人的体験に落とし込み、巧みに再構成している。プロの物書きだから当然だが、コロナ禍との絡みや結語を含め、よくまとまった随筆だと思った。彼女がロンドンで買った香水がどんな匂いなのかが気になるが、読者は想像力を膨らませるほかない。
五感の中でも、ものや場の匂いを嗅ぎ取る行為は奥が深い。ある日突然、嗅覚や味覚が消え失せるというコロナの症状は、その意味でも罪深い。
冨永 格