松本隆「冬の旅」
シューベルトの訳詞にみる壮大なロマン
タケ×モリの「誰も知らないJ-POP」
スタジオジブリに「熱風」という月刊の機関誌があるのをご存じだろうか。
A5判で約120頁のフリーマガジン。「スタジオジブリの好奇心」というキャッチフレーズがついている。毎月特集テーマが決まっており、どれも一般商業誌では取り上げない視点で切り取られている。
ちなみに、先月号のテーマは「コロナと人間」。作家、池澤夏樹のインタビューと医学博士、中原栄臣、日本テレビの依田謙一、スタジオジブリのプロデユーサー、鈴木敏夫の座談会「コロナの正体」を軸にした特集。情緒的にも政治的にもならずに考察した「コロナ論」は含蓄に富んでいた。
と書きながら、これは本題ではない。
その雑誌で筆者が連載している「風街とデラシネ・作詞家 松本隆の50年」について書こうとしている。
シングルカットされないままの松田聖子「瑠璃色の地球」
松本隆は、1969年にバンド、エープリルフールのドラマー兼作詞家としての第一歩を踏み出した。「日本語のロック」の元祖的バンド、はっぴいえんどがデビューしたのが1970年。作詞家としての本格的なキャリアはそこから始まったと言っていい。1973年、チューリップの「夏色のおもいで」とアグネスチャンの「ポケットいっぱいの秘密」のヒットで職業作家としての評価を確立。以来、彼の書いた言葉を歌ったことのない人を探す方が難しいと思われる膨大な数の作品を残してきた。
数の多さだけではない。歴代の大作詞家と比べて決定的な違いは、彼が「アルバム作家」ということがある。つまり、シングルヒットの数だけが判断基準だったそれまでの時代にはなかった存在感。それは70年代以降、音楽の主流がシングルからアルバムへと移行し、アーティストの評価がアルバムで決まるという背景もあった。シングルカットされていないアルバムの中の曲が、そのアーティストの代表曲になる。その数の多さは比類がない。直近の例で言えば、今年40周年を迎える松田聖子の代表曲「瑠璃色の地球」は、86年に出た彼女のアルバム「SUPREME」の中の曲だ。一度もシングルカットされないまま歌い継がれてきた。80年代の松田聖子のアルバムの大半は、聖子本人が書いたもの以外、松本隆が全ての曲を手掛けていることは説明の必要もなさそうだ。
スタジオジブリ機関誌「熱風」での連載は、彼が全体に関わったアルバムを辿ることで希代の作詞家の全体像を浮き彫りにしようという連載で、すでに20回になろうとしている。
「美しき水車小屋の娘」「白鳥の歌」も完成
そうやって辿っていく中には、当然のことながらヒットしたものばかりではない。知られざるアルバムや僕らが見落としてきたものも少なくない。もし、その連載がなかったら、筆者もこんな風に取り上げる機会がないままに終わっていただろうと思う。
1992年に彼が全曲の訳詞をしたシューベルトの「冬の旅」である。1827年に書かれたシューベルトの歌曲集。つまり、歌詞のある歌。やはりドイツの詩人、ミューラーの詩に曲をつけた24編は31才で亡くなったシューベルトの3編しかないという歌曲集の中でもっとも人気がある作品なのだという。歌は藤原歌劇団の、ピアノ伴奏は世界的歌手との共演も数多い岡田知子が努めている
と書いてみたものの、子供のころから歌謡曲やポップスロック一辺倒の筆者には全く馴染みがないばかりか、若い頃はむしろクラシックを敬遠していたと言った方がいい。シューベルトの歌曲と言われても「菩提樹」くらいしか聞いたことがなかった。全24編を通して聴くのも初めてだった。
文語調でもなく意味の分からない原語とも違う口語体で歌われるクラシック。しかも、テーマは失恋の痛手から立ち直れず社会にも同化できないまま死への旅を続けるといういつの時代にも当てはまる通俗的で普遍的なストーリー。歌うのは正統派のテノール歌手という組み合わせは、それまでに聴いたことのない「日本語の歌」だった。
なぜ、松本隆は、シューベルトに口語詩をつけようと思ったのか。彼は筆者のインタビューに「原語で歌われるコンサートを聴いていて、頭の中に日本語が浮かんでいた」と言った。
彼がアルバム「冬の旅」を発売した1992年は、88年に松田聖子とのコラボレーションにピリオドを打ち一線から身を引いて、「クラシックや古典にのめり込んでいた」時期だ。彼は10代の時にビートルズに出会ってバンドに目覚める前に家ではクラシックが流れていたという家庭で育った少年だった。改めて辿り直すクラシックや古典と自分が切り開いてきた「日本語の歌」が重なり合うのも自然な流れだったに違いない。
31才で亡くなったシューベルトの苦悩を"教養"としてでなく同年代的な共感を得られるように伝えることが出来ないのだろうか。彼が日本語にした「冬の旅」は「青春の死」のアルバムでもあると思った。
はっぴいえんどは、英語で歌うことが当たり前だったロックに日本の生活や季節感を織り込み現代詩のような言葉を載せることに成功したバンドだ。当時、彼らに対しての批判的な意見が「ロックは英語で歌うべきだ」というものだった。「冬の旅」に対して、クラシックの世界から同じような反応があったことは容易に想像がつく。松本隆は、その後、2004年に「美しき水車小屋の娘」、2015年には「冬の旅」を再録、2018年には「白鳥の歌」とシューベルトの歌曲三部作の日本語訳を完結させた。
今年は彼の作詞家デビュー50周年。テレビを始め、様々なメディアで彼が書いた曲にスポットが当てられている。
でも、誰もが知っているそうしたヒット曲は「作詞家生活50年」という活動の氷山の一角なのではないだろうか。スタジオジブリの機関誌「熱風」での連載が、そんな全貌を知る手がかりになればと思いつつ大詰めに向かって行ければと思う。彼が持ち続けていた「日本語の歌」に対しての壮大なロマン。92年の「冬の旅」に始まるシューベルト三部作はその証しではないだろうか。
(タケ)