ドビュッシー「マスク」 人間存在の悲劇の表現

   世界中で広がる新型コロナウイルス感染症予防のために、マスクを装着することが推奨されています。日本では風邪の時や花粉症の場合など、室内でも室外でもマスクをすることが当たり前でしたが、欧米は、特に屋外でのマスク姿は「病人が病院を抜け出してきたような様子」と認識され、拒否反応を示す人もまだまだ多かったりします。

   私がフランスに留学していた1990年代などは、マスク姿の人は市中ではほぼ見かけず、日本だったらマスクをしたいな・・・という状況でも、パリの街中では注目を浴びすぎるので断念しました。しかし、今回のコロナ禍の中ではそのようなことも言っておられず、感染者が再び増え始めたフランスでも、公共共通機関を利用する場合に続いて、「ある一定の店内・屋外」でもマスクの着用が罰則を伴う義務となりつつあります。マスク姿が当たり前となってきたフランスの映像などを見て、隔世の感なのと同時に、今回のウイルスのもたらす世界的な影響の大きさも同時に感じてしまいます。

ドビュッシーは、まさに「マスク」とだけ題名をつけている。その意味するところは奥深い謎である
同時期に作曲された「喜びの島」派手な終わり方と対象的に、PPP(最も小さく)という強弱で、静かに、謎めいて終わる
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「ベルガマスク組曲」には入らなかった

   マスクはフランス語でも「マスク」といいますが、この単語は、同時に「仮面」という意味合いもあります。どちらかというと、通常フランス語で「マスク」と言った場合は、顔の下半分を覆う医療用のものよりも、「お面」「仮面」の方を指すことが多かったような気がします。ただし、この未知のウイルスが広がるまでは・・・・。

   ということで、今日はフランスを代表する作曲家、ドビュッシーの「マスク」という曲を取り上げましょう。もちろん、この場合は「仮面」の意味で、この曲も日本では「マスク」よりは「仮面」と訳されることが多くなっています。

   そして、フランスの「仮面(マスク)」は、現在でもヴェネツィアのカーニバルなどで見られるさまざまなマスク・・・仮面舞踏会に使われるようなものを指し示す場合が多くあります。特に、近代以降のフランス音楽の場合、「仮面(マスク)」は、イタリアのコメディア・デラルテ、すなわちルネサンス時代にフィレンツェの宮廷などで行われた、仮面即興劇のことを念頭においています。これは、ヴェルレーヌなどの文学作品において、イタリアン・ルネサンスの時代が、フランスの芸術の源流として偶像化され、讃えられたということに影響されているからです。

   ドビュッシーの「仮面(マスク)」は5分ほどのピアノ独奏曲です。もともと数曲を集めて組曲とした「ベルガマスク組曲」・・・三曲目が彼のもっとも有名なピアノ曲「月の光」です・・・を構成する一曲として構想されましたが、同時に作曲された「喜びの島」と同じく、出来上がった「ベルガマスク組曲」には組み込まれず、単独のピアノ曲として初演され、出版されました。終わりのクライマックスが華やかな「喜びの島」と違って、少し難解なところがある「仮面(マスク)」は地味な存在で、初演の時からそれらの曲よりも評価が低く、現代でも「ベルガマスク組曲」や「喜びの島」に対して、演奏される回数はかなり少ないといってもいいでしょう。

人間の複雑さを表現する後期ドビュッシーの世界

   ドビュッシーが大変影響を受けたヴェルレーヌの「月の光」という詩の中に「マスクとベルガマスク」という一節があります。これはもちろん韻を踏んでいて・・というか駄洒落に近いと私は思うのですが、フランス語で「イタリアのベルガモ地方風の」という「ベルガマスク」と、「仮面」の「マスク」をかけています。少し先輩の作曲家フォーレは、この題名で舞台音楽とそれから抜粋した管弦楽組曲を残しています。ドビュッシーは、同じことをしたくなかったから「仮面(マスク)」を「ベルガマスク組曲」に入れなかったのでしょうか?

   真相は分かりませんが、この曲を書いたのは1904年、ドビュッシーが「ベルガマスク組曲」として最終的に組み合わせた4曲を1890年ごろに書いてからすでに15年近くが経っていました。その間に彼の作曲スタイルも随分と変化し、また、彼自身の立場も、新進気鋭の作曲家から、押しも押されもせぬフランスを代表する作曲家、と変わっていたのです。

   そして、この年、ドビュッシーは妻帯者でありながら、のちに後妻となる既婚女性と不倫騒動を起こし、パリの社交界に居辛くなって、ブルターニュ地方などに逃避行を行っていました。その中で、「仮面(マスク)」と「喜びの島」が書かれたのです。そして、彼自身が、フランス史に名を残す名ピアニスト、マルグリット・ロンに「この仮面は、イタリア即興喜劇のマスクではなく、人間存在の悲劇の表現である」と言い残しています。

   この言葉が、どれだけドビュッシーのプライベートの生活と直接リンクしているのかは想像するしかありませんが、単純にイタリアのベルガモ地方の美しさを讃えたり、ルネッサンスの即興喜劇にオマージュを捧げているように聞こえる美しい「ベルガマスク組曲」に加えるには、「仮面(マスク)」は、ひょっとして複雑かつ現実的、そして、韜晦(とうかい)だったのかもしれません。私には、少なくとも「ベルガマスク組曲」のシンプルで、ストレートな美しさよりも、「マスク」はその名の通り、喜劇や悲劇を表す極端なキャラクター・・つまり即興喜劇に登場し、現代ではサーカスやパントマイムにその姿を伝えるピエロやアルルカン、といった存在です・・・を通じて人間の複雑さを表現する「後期のドビュッシーの諧謔(かいぎゃく)的な世界」が広がっているような気がします。

   マスクは人の表情を隠しますが、ドビュッシーの「マスク」も、その影に隠れた彼の真意を想像しながら聴くと、なかなか味わい深い、彼ならではの作品です。

本田聖嗣

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