カレーの誘惑 植野広生さんは「ライス半分にするから」と食欲に従う
dancyu 8月号の巻頭言「今月のdancyu」で、編集長の植野広生(うえの・こうせい)さんがカレーの誘惑について書いている。今号の特集「カレーとスパイス」にちなんだ一文だ。2017年4月から編集を仕切る植野さん。グルメより食いしん坊の形容が似合うらしい。
「食欲は目と鼻から始まります」
断定調の書き出しにはリスクもあって、読み手のご機嫌が悪ければ「...んなわけねーだろ」とページごと飛ばされかねない。とはいえ、食通が集う雑誌の編集長がそう言い切った場合、読者のほぼ全員が「そうかもしれない」とついていくだろう。
もちろん、そこまで計算しての冒頭である。
確かに美味しそうな料理の写真は、すぐに食べたいと思わせる。植野さんによると、視覚情報を「美味しそう」と変換できるのは、「いろいろな料理を食べて経験値が高い人」となる。写真一枚で食欲をそそられてしまう人...ただの食いしん坊ともいうが。
嗅覚は、視覚よりストレートに本能を刺激するらしい。
「街を歩いていたら、ふと漂う甘く濃厚な香り。ああ、この先に鰻屋があるんだ、と思った瞬間に、蒲焼きがたっぷりのった丼のイメージが浮かびます」
植野さんは学生時代、鰻屋でアルバイトをしていたそうだ。従業員の賄いは「タレかけ飯」だったが、土用の丑の日だけは山盛りの鰻丼が振る舞われたという。
食べ物の匂いは、空腹と満腹の記憶まで支配するのかもしれない。
抗えない香り
植野さんは「最近はスパイスの香りによく誘われます」とつないで、本題のカレー話に戻る。「本格的なカレーの店が増えたためか、カレーの香りの中にスパイスを感じることが多くなりました」と。カレーは後述するように、スパイスの総合芸術である。
「この香りには抗えないですよね。あまりお腹が空いていなくても、つい、導かれるまま店に入ってしまいます。ライスを半分にすればいいんだから、などと心の中で言い訳をしながら」
そうやって「経験値」を高めていくうちに、街角でスパイシーな香りを嗅ぐだけで食欲が高まってしまう...「香りに誘われる快楽の罠(?)にハマっているのは、僕だけではないですよね?」...と結ばれたら「そうそう、僕も僕も」と答えるしかない。
シンプルほど難しい
同誌の特集によると、スパイスカレー作りの基本手順は次の通り。
(1)油にスパイス(ホール)の香りを移す
(2)その油でタマネギを炒める
(3)パウダースパイスを加える
(4)具材と水分を入れて煮る
(5)仕上げの香りをつける
つまりはスパイスのオンパレード。それぞれの香りが混然一体となり、食欲を刺激する結果、出来あがる頃には飢餓感が極限まで高まっている、という寸法だ。
植野さんは他メディアへの登場も多く、7月からはTOKYO FMで、言葉だけで食欲を刺激する番組「食べるラジオ」(土曜夜7時)が始まった。Dancyuの写真や文章が読者の食欲を刺激するように、「リスナーのおなかを鳴らしたい」と語る。「ラジオは音声だけ。素ラーメンのように、(料理と同様)シンプルになるほど難しいし、おもしろいんですよ」と、朝日新聞の取材に答えている。
「シンプルになるほど難しい」...肩書だけでなく、食べ手としても百戦錬磨の植野さんだからこそ説得力を持つ「断定」だ。味覚はもちろん、嗅覚も視覚もなし。言葉や音声だけで食べたくさせる表現力は一朝一夕では身につくまい。
カレーも、限られたスパイスだけで勝負するほど難しいに違いない。とはいえ、これからの季節、カレーが一段と美味くなる。暑さや、冷水までもが引き立て役になるからだ。
〈夏とライスカレーは、まさしく若者のためにある〉
天声人語でそう言い切ったのは深代惇郎(1929-1975)である。深代クラスになると、根拠の薄い断定にも「なんでやねん」と突っ込む者はいなかったはずだ。
冨永 格