不安について 土屋賢二さんの妻は「あなたがいると安心できない」
週刊文春(7月16日号)の「ツチヤの口車」で、土屋賢二さんが「不安を感じない能力」を論じている。ご存じ、お茶の水女子大名誉教授によるユーモアエッセイ。哲学者とは思えぬ軽口の嵐の中、今回も期待通りの猛速で「口車」が回る回る。
まずは人間が不安を感じる理由から...「答えは明らかだ」という。
「不安がなければ、行動は軽率になり、簡単にウイルスに感染し、事故で命を落としてしまう。生き延びるためには不安が必要だ」
長い愛読者は、真に受けていいのはここまでだなと思う。土屋さんは構わず、心配のタネは無数にあるのに全部に不安を抱かないのはなぜか、と自問する。子ども時代、世界は怖いもので満ちていたが、不安を抱くことはほとんどなかったと。「毎日宿題を忘れては叱られ、翌日また宿題を忘れるのだ」...土屋節の始まりである。
「叱られるのが怖くなかったわけではない。とくに父は死ぬほど怖かった...実際に父の怒りの半分は殺意だったと思う。それほどの恐怖に怯えても、翌日には忘れていた」
小4の時、土屋さんは教室で毎日、創作童話を語る係をしていたという。準備もせず、教壇に立たされて初めて窮地に気づく。にわかには信じがたいが、「話を適当に作ってゴマカしてやっとの思いで切り抜けた次の瞬間には、翌日も話をさせられることを忘れていた」まで読み進み、「早くも10歳で話をテキトーに作っていたのか...」と妙に納得した。
破滅的な行動を選ぶ
「すぐ忘れるという性質をいまも失ってなければ、妻に叱られて(妻の怒りにも殺意が混じっている)シュンとなっても、五分後には立ち直れるはずだ」...この恐妻キャラも連載のお約束。不安に襲われるようになったのは思春期以降だという。「他人にいいところを見せようという欲望が肥大して不安が増大した」そうだ。
「だが、不安は健康と対人関係に限られていた。普通なら不安を抱くような状況でも不安を感じなかった。大学で哲学専攻に決めたときもそうだ...不安ですくみ上がっていたら、哲学を究めるなどという無鉄砲なことはできなかっただろう」
不安の効用を説く冒頭を読み返せば、論旨が大きく転じているかに見えるが、筆者はお構いなしである。ここまで付き合った読者も、お構いなく読み進めるしかない。
「こうしてみると、人間は不安を感じないようにできているとしか思えない...人間が不可能とも思える偉業を成し遂げたり、破滅的な行動(戦争、ギャンブル、結婚など)を選んだりできるのは、不安を感じないでいられるからだ」
土屋さんは上記の「重大発見」を周囲に「無料で教えた」らしい。すると、昔の教え子は「大学時代、こんな先生に教わっていいのか、と不安しか感じませんでした」と告白した。奥方の言い草はもっと残酷で、「結婚前から不安だった。あなたがいると安心できたためしがない。早く安心させてほしい」...そして全体のシメはシンプルに、次の8文字である。
「不安になってきた」
ナンセンスに身を任せ
初めて土屋さんのコラムを読む人は、どこまで本気なのだろうと戸惑う。そのうち、冗談の中に幾ばくかの真理が潜むのではないかと探すようになり、やがてすべてが冗談だという不都合な真実に気づく。そこから本気で楽しめる人だけがファンになる。
今作でも「生き延びるためには不安が必要だ」から、「人間は不安を感じないようにできている」に至るロジックの倒錯が気になるうちは、まだまだ。文章自体の面白さ、ちりばめられた屁理屈やナンセンスに身を任せるべきなのだろう。
私も、執筆や講演の前には人並みに緊張し、不安を抱く。不安や緊張の大きさを概念的に表せば、分子が「周囲の期待」、分母は「自分の実力」ということになろうか。
もともと期待や要求のレベルが低いか、やすやすとこなせる自信があれば、不安も緊張も小さく、無視できるほどになる。逆も真なりで、己の実力が要求水準に追いつかないと思えば自ずとドキドキする。私の場合、分子も分母も等しく小さいので、どう転んでも大したことにはならない。これに対して、分子も分母も大きい、例えば一流アスリートの五輪決勝におけるパフォーマンスなどは、観ている側まで鼓動が高鳴るものだ。
思うに、土屋コラムに「人生の教訓」のようなものを期待する読者は少ないだろうから、先生、毎回リラックスして執筆されているはずだ。それが軽快な筆致に表れている。
その境地に早く到達したいものである。
冨永 格