永遠の向田ロス 石井ふく子さんは入稿先延ばしの技を「天才的」と

   週刊現代(6月13-20日号)の「身の丈のしあわせ」で、テレビ界の大御所プロデューサー、石井ふく子さんが向田邦子(1929-1981)の思い出を記している。

「汗ばむ季節になってきました。この時期になると、思い出す方がいます。脚本家の向田邦子さんです。1981年8月、台湾での取材旅行中に飛行機事故に遭い、帰らぬ人になってしまった。私より3歳年下で、まだ51歳の若さでした。残念でなりません」

   石井さんが向田と初めて組んだのは1976年、杉村春子主演の日曜劇場「母上様・赤澤良雄」だが、以前からTBS社員として、退社後はフリープロデューサーとして彼女に注目し、他局の「だいこんの花」などを熱心に観ていたそうだ。「人間の捉え方が違う」と。

「やがて一緒に仕事をするようになると、やっぱり書いてくださるものは素晴らしかった。でも、一つだけ困ったことがありました。書くのがとても遅いのです」

   締め切りの日、石井さんが南青山の向田宅に出向くと「ねぇ、ご飯食べた?」。さすがに「その前に脚本を」と催促するわけにもいかない。台所に立った主は「鮭が好きだったわよね。きょうは良い鮭があるのよ」と、つけ入るスキを見せない。

   脚本について切り出せないまま食事。「これがプロ顔負けの味で、いつも絶賛しました。そんな方との食事中に仕事の話なんて出来ません」...いざ本題という頃合いで、向田は「ねぇ、下町の話を聞かせてよ」。脚本の取材かも知れず、断りにくい。話題が切れずに雑談が終わらない。なんだかんだで真夜中になり、気がつけば玄関で見送られている。

   石井さん、人が好すぎる嫌いがあるが、向田の人あしらいも相当なものである。

向田邦子は鮭好きの石井さんに手料理をふるまった
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素敵なラブレター

「脚本が出来上がるのは決まって収録ぎりぎり。才能の塊のような方でしたが、締め切りを延ばす技術も天才的でした。こちらはハラハラして脚本を待つのですが、やっと届いたものを読むと、これが絶品で、素敵なラブレターをもらったような気分になりました」

   だから性懲りもなく、また待たされる。待って待って、待ち疲れた末の「恋文」だ。

   思い出深い協業に、石井さんは日曜劇場の2作を挙げている。最初の「母上様・赤澤良雄」と、翌1977年の草笛光子主演「花嫁」。付き合いはしかし、長くは続かなかった。

   〈向田さんがお亡くなりになりました〉...その電話は、スタジオ上部にある機材だらけの部屋(サブ=副調整室)で受けたそうだ。しばらく茫然自失となった。

「やがて現実に直面し、もう向田さんの手料理が食べられず、ラブレターもいただけないことに気づき、途方もない悲しみに襲われました」

   石井さんは、向田作品の魅力は何だったのかとよく聞かれるそうだ。

「一言では言い表せませんが、私は根っからの悪人が出てこないところが好きでした。やさしくて純粋な方でしたから、悪人なんて書きたくもなかったのかもしれません」

作品に宿る普遍性

   石井さんは93歳。ということは向田邦子、存命なら90歳である。遺影の若々しさとの落差が改めて切ない。

   石井さんといえばTBS時代の「肝っ玉かあさん」や「ありがとう」、フリーになってからは1歳上の橋田壽賀子さんと組んだ「渡る世間は鬼ばかり」で知られる。

   同世代の向田を意識し、同じTBS系で向田が本に参加した「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」などの人気ドラマにも注目していたに違いない。

   向田の遅筆と乱筆には多くの伝説があるが、石井さんの証言通りなら、少なくとも「待たせている」意識はあったようだ。待つのはつらいが、待たされる甲斐はある。テレビ制作者も雑誌の編集者も、胃痛と祝杯の繰り返しだったことだろう。

   没後30年にあたる2011年、NHKチーフプロデューサーとして短編小説『胡桃の部屋』をドラマ化した高橋練さんは、向田作品の魅力をこう語っている。

〈こんなに時代が変わっても、向田ドラマは文句なしに面白い。時代が違うからこそ、その普遍性が際立つ。ホームドラマに、ユーモアと毒を切れ味鋭く持ち込んだ凄さ。軽妙なシーンに、ぞっとするほどの毒や真理がある。ドラマとしての深度が半端じゃない〉

   昭和という時代へのノスタルジーを超える普遍性。それは、生身の男と女の嫌らしさであり、人情の機微であり、滑稽な人間関係などなど。テーマが普遍的だからこそ、これからという時に創作活動が断ち切られた痛惜も延々と続く。石井さんのような業界人も、視聴者や読者も、それぞれの「向田ロス」をそっと抱えているのだろう。

冨永 格

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