皆で議論して決めることは最悪の結果をもたらす危険性がある!?

■『Groups Make Better Self-Interested Decisions』(Gary Charness & Matthias Sutter. Journal of Economic Perspectives)


   前回の書評で熟議民主主義における熟議の意義について論じた、フィシュキンの『人々の声が響き合うとき 熟議空間と民主主義』を取り上げた。フィシュキンの提案する「討論型世論調査」(deliberative pool)では、住民から無作為抽出した者により小集団をつくり、その小集団に熟議をしてもらい、その後、参加者各人に自分の意見がどうであるかアンケートに答えてもらい、回収する。そこで表明されている意見が、熟慮を経た上で住民が抱いたはずの正統な民意であるとされる。フィシュキンによると、熟議を通じて市民としての能力の向上を期待することができるという. 熟議は公共精神などの市民が集団の問題を解決するのに役立つ属性を強め、よりよい決定を導くという。

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自分の利益になるよりよい決定

   今回紹介する論文「Groups Make Better Self-Interested Decisions」は、フィシュキンの熟議への楽観的な見方について、半ば肯定的な意味合いを持ち、半ば否定的な意味合いを持つ。

   Charness & Sutterは、様々な経済実験のサーベイを通じて、三つの教訓を導き出している。1)グループは個人よりも認知的に洗練されていること、2)グループは自制心の必要な問題に対してより上手く対応できること、3)グループでの決定はグループにとって利益になる決定を行う傾向を強めることで、結果的にグループの厚生を減らしてしまうことである。

   このうち最初の二つの教訓は、グループの決定を推奨する根拠になりうるものである。個人にありがちな認知上の錯誤や思慮の浅い行動を抑制することで、グループとしてよりより決定が導かれやすくなる。

   他方、グループでの決定がより自分の利益になるような傾向があるという、三つめの教訓については、肯定的な面ばかりではない。個人では一見個人の利益には反するような利他的な決定を下すことがあるものだが、この傾向は結果的に社会のなかでの協力の程度を高め、社会全体の厚生を高めることがある。ところが、グループの決定では、そのようなお人好しの決定がなされる頻度が低下し、結果的には社会全体の厚生が下がってしまう恐れがある。

   このことは、フィシュキンのいう熟議を通じて、市民としての能力が向上するという話とはたいぶ矛盾する話である。市民としての能力とは、その場で集まったグループだけではなく、社会全体としてどのような決定がよいか考える能力であるとするならば、皆で集まって決めることは、むしろ市民としての能力を阻害する恐れがあるのではないか。

   殊に国を異にする異邦人、時代を異にする将来世代が完全にグループの外にいるとすると、グループの決定は異邦人や将来世代にとっては最悪の決定であるかもしれない。

経済官庁 Repugnant Conclusion

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