フルホン魂 嵐山光三郎さんの古書愛はコロナ禍にもくじけない
週刊朝日(5月8日・15日合併号)の「コンセント抜いたか」で、嵐山光三郎さんが古本と古書店への愛を語っている。題して「フルホン魂」ときた。
「新刊書店へは行ってもいいが古書店はダメ、というおふれが出た。古寺巡礼と古書店廻りは人間再生の浄化装置なんですよ。本を読まない連中が決めるから、こうなる」
この冒頭には、若干の解説が必要だろう。新型コロナの感染を抑えるため、東京都は4月半ば、休業をお願いする業種の詳細を発表した。線引きの基準は〈生活上、必要不可欠かどうか〉である。一般書店は「学習参考書なども扱い、現在の情報を入手できる場所」として外される一方、古本屋は「趣味的な要素が強い」との理由で事実上の休業令が下った。
「一冊の本が何人かの読書家の手をへて店頭に並び、ようやく自分の番がきたという思い。古本がつなぐ精神のリレーは、新刊書とは異次元の気魄があるんだよ。先人が読んだ余熱が活字の上に漂っている...古本屋は、こういった精神のリレーを仲介する業者である」
書き手である前にプロの読み手である嵐山さんらしく、静かな怒りがにじむ。
「古書店にはフシギな静けさと香りがあり、活字の威厳が漂っている。誘惑の甍(いらか)である。薄暗く濃密な書棚の陶酔。新刊書店は甘味がとろける本の花壇だが、古書店はひとつ奥にある秘密の森である」
昔の恋人に再会して
古本は古い時代から降って来る「降る本」でもあって、人の心の池に飛びこむ活字の音がするという筆者。遠慮がちに鉛筆で薄く引かれた傍線の味、気難しい店主との交わりなどの体験談が面白い。有名な神田の古書店街は、都心の一等地という立地がアダになり地上げ攻勢で荒廃したが、老舗の跡取りたちの奮闘で再生したことも紹介される。
「それは古本ファンと古書店主が一体化してなしとげられた...日本が世界遺産として誇っていいのは、じつに神田の古本街なのである。神田古書店街がよみがえったことにより、青山、渋谷、高田馬場、中野、荻窪、吉祥寺の古書店も活気をとり戻した」
業界仲間と目利きぶりを競う「古本買い勝負」、その後の居酒屋での合評会の話、やはり古本好きだった「頑迷固陋」の父上の思い出も楽しい。「還暦を過ぎたころから、偏屈の気分がわかるようになった...過ぎ去った時間の影を見つめていたのだ。古本の快楽」
読書家の嵐山さんは蔵書がかさみ、年に一度はなじみの古本屋が引き取りに来るそうだ。未読の本を含めて書棚ごとまとめ買いしてもらい、空きスペースを見て安心する。これを繰り返すと、書棚には辞典、地図帳、年鑑、図鑑ばかりがたまっていくという。これは私もわかる。何か書く時に参考になりそうな本は、たいてい書棚で長生きする。
「古書店へ行くと、売ってしまった本に出会うことがある。すると昔の恋人に再会したトキメキで、また買ってしまう。ヨリが戻った」
書かずにはいられない
「コンセント抜いたか」は、引用作で1141回を数える週朝の名物連載。各誌のコラムやエッセイがこぞって新型コロナを切る中、78歳の大御所も例外ではない。ただ嵐山さんのこの文章には、時の話題に付き合うというより、古本文化を護るためにいま書かずにはいられない、という覚悟のようなものを感じた。
都の休業要請が出ると、150以上の古書店が集まる神田の神保町にはメディアの取材が集中した。朝日紙上には「都の判断には本への教養を感じない。神保町は心の支え。研究で古書店が欠かせない人もいるのに」という私大教員の嘆きが載った。経験のない長期休業で行き詰まる店もありそうだ。
新刊書店でも「自主休業」する店が相次いでいる。取次大手によると、4月下旬の時点で全国で1000店以上が閉めている。
コロナ禍はあらゆる文化とその担い手を窮地に追いやった。この窮地をしのぐには、当事者がSOSを強く発信すると同時に、ファンやパトロンが支援の声を上げるしかない。編集者出身の作家である嵐山さんは、格好の旗振り役だろう。私は「フルホン魂」を拡散することくらいしか能がないけれど。
コロナ一過、古書文化が消えていたという未来は見たくない。
※余談だが、新聞コラムで「コンセントを抜く」と書いたら、読者から「正しくはコンセントに差し込まれたプラグを抜くのであって、コンセントを壁から引き抜いたら発火の危険がある」とのご指摘をいただいた経験がある。
冨永 格