人気絶頂の社交家フランツ・リストも引きこもりだった

   先週は、ベートーヴェンのソナタ「悲愴」を取り上げましたが、現代のピアニストにとって最重要曲目の一つと言われるこのソナタを含むベートーヴェンのピアノ作品は、意外なことに、彼の死後直後は全く忘れられた存在でした。斬新な工夫がたくさんありすぎたために、「時代が彼に追いついていなかった」ことが原因だと思われますが、交響曲などオーケストラ作品は彼の生前からある程度の評価を受けていたのに対し、ピアノ・ソナタは、全くといってよいほど知られていませんでした。

   そのピアノ・ソナタを演奏会のプログラムに載せたのは、ベルリンではバッハの復活上演を行って「クラシック音楽」という分野を作ったといってもよいフェリック・メンデルスゾーンで、パリでは、フランツ・リストがこの「知られざるソナタ」を演奏会で取り上げていました。

若きリストの肖像
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欧州どこに行っても熱狂の渦に

   ドイツ系の家系に生まれたため、ハンガリーの生まれでもドイツ語しかほぼ話せなかったリストは、「ハンガリー出身」というエキゾチックさを伴ってパリに登場していました。音楽の才能に気づいた父親に小さい頃から英才教育を受けさせられ、ウィーンでは、ベートーヴェンの高弟であり、当時一流のピアニストであり、作曲家としては練習曲集で有名なチェルニーに師事し、その縁でベートーヴェンにも一度だけ「お目通りする機会」があったリスト少年は、ハンガリーでのデビューのときから「天才少年」の名をほしいままにしていました。チェルニーは彼の才能に舌を巻き無料でレッスンをし、自作を弾く少年を目の当たりにした気難しいベートーヴェンは、大変機嫌が良くなり少年の額にキスをした、というエピソードが残っています。もっともベートーヴェンとのエピソードは、リストが年老いてから語ったもので、ちょっと眉唾です。なぜなら、先週もとりあげましたが、ベートーヴェンがリスト少年の演奏を聞いたときにはすでに、相当難聴が進行していたからです。しかし、ベートーヴェンがリストと会って、その演奏を褒めた、ということは真実のようです。

 

   天才少年として「モーツァルトの再来」と言われたリストに対するフィーバーぶりは、欧州のどこへ行っても変わりませんでした。ハンガリーを出発点に、ウィーンや帝国内の都市、そして、パリでも一様に聴衆は少年の演奏に熱狂したのです。パリにはもともと私の母校でもある「パリ音楽院」作曲科への入学を目指して来たのですが、皮肉なことにイタリア人の校長に、「外国人である」ということを理由に入学を拒否されます。しかし、音楽院教授に個人的に師事したりしつつ、ピアニストとしても活動し・・・父がハンガリーのエステルハージ家という貴族に仕えていたために、パリ社交界への紹介状をたくさん持参したのでした・・・パリのサロンを席巻します。「リスト、その超絶技巧とイケメンぶりで、パリの貴婦人たちを熱狂させる」という有名なエピソードはこの頃のもので、多少誇張はあるかもしれませんが、ほぼ真実でした。パリだけでなく、スイスや英国にも足を伸ばし、ロンドンでは国王ジョージ4世の前で御前演奏も行っています。ある意味「大人になったらただの人」扱いだったモーツァルトよりも、十代後半になってもその名声に陰りがなかったリストのほうがすごい・・・とも言えるかもしれません。

   そんな順風満帆のリストですが、突如、パリの社交界からいなくなります。彼はいきなり「引きこもり」になったのでした。その少し以前に、「あまりにも忙しい演奏旅行」の疲れを癒そうと、リストと、演奏旅行には必ず寄り添っていたマネージャー役の父アダム・リストは、英国海峡を望む港町、ブーローニュ・シュル・メールにプチ・バカンスにでかけます。そこで、長年の疲労が祟ったのでしょうか、父は腸チフスで亡くなってしまいました。自分自身と、家族を養わなければならなくなったリストは、母をパリに呼び寄せます。相変わらず、ピアニスト・リストはパリの街角に肖像画が飾られているほどの人気で、演奏家として収入には困りませんでしたが、リストはピアノの個人教授も始めます。そこに、大きな悩みが降りかかったのです。

自分の生活に疑問、人前から姿消す

   一つ目は、青年らしいものでした。恋愛です。ピアノの弟子であり、ほぼ同い年だったカロリーヌ・ド・サン=クリック嬢に恋したのです。父親がフランスの伯爵で、商務大臣という高い身分の令嬢との関係は、当初は伯爵夫人の応援を受けていましたが、その母親が亡くなると暗転しました。大臣の娘の相手として「遠い外国からやってきたどこの馬の骨ともわからない音楽家」は不釣り合いだったのです。伯爵に交際をやめるよう説得され、16歳のリストは引き下がるしかありませんでした。このあと多くの恋愛を重ねることになるリストですが、カロリーヌとの最初の大恋愛だけは、生涯忘れ得ぬものとなりました。

   しかし「引きこもり」の原因は、二つ目のほうが大きかったかもしれません。それは、こういうことでした。

   小さい頃からピアノの神童として育てられ、王侯貴族の居間や、社交界といった華やかな場所で演奏を重ね、洗練された身のこなしや会話、そしてなにより超人的なピアノの腕は身につけていましたが、リストは突然、それでいいのか・・と自分の生活に疑問を持ってしまったのです。他の子供と違い、一般教育も受けていないので教養がないと自覚していましたし、リストに熱狂的な喝采を寄せる人々の様子を見慣れるにつけ、彼は「芸術」を志しているのに、ステージで猿回しの猿を演じさせられている・・・と感じるようになるのです。彼が救いを見出した先は、宗教でした。ブーローニュに滞在中から宗教的な本を読み漁り、それをよく思わない父親に本を取り上げられたりしていたのですが、父なき今、パリのリストは、本格的に読書三昧の生活に入ろうと決心したのでした。

   人前から姿を消し・・・すなわちあれだけ望まれている演奏会をきっかりとやめ、その上、レッスンもしなくなりました。そして、今度は宗教関係だけでなく、哲学や文学書を読み漁ります。友人に「フランス文学のすべてを教えて下さい!」と依頼したりもしています。ハンガリー出身だがハンガリー語を喋れなかった、ドイツ語ネイティブのリストだったはずですが、この時期は完全に「フランス人」になっていました。ヴォルテール、モンテーニュ、パスカル、ルソー、そしてヴィクトル・ユーゴーなどを乱読したリストの後年の代表的な作品が、多くはフランス語の題名が付けられ、また宗教的な内容を持つものが多いのは、この時代の影響だといえましょう。

フランス7月革命で街に出るように

   本当に体調も崩してしまったリストは、1828年ごろから、文字通り部屋から出なくなります。パリの社交界には「リスト死亡説」まで流れる始末でした。幼い頃から神童として人前で喝采を浴びてきて、青年期から大人になって挫折を味わい消えてしまう・・というパターンは多いのですが、17歳の多感なリストも、その瀬戸際にいたのかもしれません。

   しかし、天はリストを見捨てなかったからでしょうか、彼の周囲、すなわちフランス・パリでは、エキサイティングなことが起こります。1830年7月、フランス7月革命が起こるのです。生涯に渡って政治的というより宗教的だったリストは、革命の内容を必ずしも把握していなかったかもしれませんが、彼は一端の革命家気取りで、街に出るようになります。ベートーヴェンの「ウェリントンの勝利」に習って「革命交響曲」的なものを書こうとし、まだ未熟だったため、作品としては完成しませんでしたが、後年の交響詩につながる作曲手法を身につけます。

   民衆の革命によって、立憲君主制となったフランス。パリはエネルギッシュな都会となり、その後もリストにエネルギーを供給し続けます。すなわち、同じく革命家気取りだった作曲家、ベルリオーズと知り合いとなり、彼のエネルギッシュな「幻想交響曲」に刺激を受け、翌年には、ヴァイオリンの魔神、ニコロ・パガニーニの超絶技巧の演奏に接して雷に打たれたように感動し、「ピアノのパガニーニになる!」と決心し、さらに翌年には、パリに現れたポーランドの天才、ショパンとも友人になります。

   すっかり、パリの社交界に復帰したリストは、音楽家としても人間としても一回り、大きくなりました。まだまだ作曲家としては駆け出しだったので、この時期の作品は上記革命交響曲を始めスケッチだけだったり、お蔵入りになったものも有るのですが、生涯に渡って2度大きな改定をし、代表作となった「超絶技巧練習曲」の初版も作曲するようになりました。

   社交家で人気者であったリストにもあった「お籠り期間」。そして、それは確実にその後の彼の人生の糧となっています。今は、全世界で「籠もらなければいけない」時期となっていますが、いつか、外に自由に出ることができるようになったときに、より良い時間を持つために、読書や思索や練習の時間としたいものです。

本田聖嗣

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