学校の「卒業」は出発点に過ぎない作曲家たち
今年は、新型コロナウィルスの感染症による自粛要請で、つぎつぎと人が集まるセレモニーが中止になっていますが、本来ならば、日本の3月下旬は卒業式シーズンです。完全中止とならなくても、規模を縮小して卒業式を行わざるを得ない今年の卒業生は少し気の毒です。
クラシックの音楽家・・このコラムではほぼ作曲家を取り上げていますが・・・にとって、卒業とは、主に「音楽学校のからの」、ということになりますが、単なる通過点に過ぎません。一般教科であっても、大学を卒業しただけでは社会人としてはまだ半人前かそれ以下、企業などに入って新人研修から、上司のもとでの修行を積んで、ようやく一人前になるといわれます。音楽ももちろん然りで、音楽学校・・日本の場合は最高学府が音楽大学または大学院となりましょうか・・・を卒業したぐらいでは、まだ一人前とは言えません。特に、人生の経験などが作品や演奏に現れてくる芸術は、若い、ということはあまり有利な要素ではなく、その点、スポーツなどとは反対に、「長い修行期間と円熟」が求められる分野でもあると言えましょう。
史上もっとも有名な「卒業同窓生の二人」
また、音楽のレッスンは職人の修行・・・徒弟制度のような現場で行われるわけで、あまり一般教科のような、クラス授業に馴染むものではありません。その点で、学校制度に馴染みにくい教科ですし、「学校を卒業してから一人前になるまで」が厳しい職業であるとも言えます。
今日は卒業式・春休みシーズンですから、史上もっとも有名な「卒業同窓生の二人」に登場してもらいましょう。ロシアのアレクサンドル・スクリャービンとセルゲイ・ラフマニノフです。年齢は、スクリャービンのほうが1歳年上だったのですが、彼は陸軍士官学校からの転校組だったので、モスクワ音楽院では、ラフマニノフと同学年に在学ということになりました。
スクリャービンは身長160センチほどと小柄な体格、一方のラフマニノフは2メートル弱の大男、もちろんこれは手の大きさにも反映しますから、「大きな和音を掴む」ということならば、ラフマニノフの手のほうが圧倒的に有利ですが、ピアノに魅せられていて、練習熱心なスクリャービン・・・時々練習のやりすぎで右手を壊し、左手だけで演奏するための左手の曲を残しています・・・のピアニストとしての能力は桁外れのものがあり、自然と、周囲からこの二人が学年のトップ・ライバルであると注目されたのです。
現在では二人とも作曲家として認識されていますが、二人とも優れたピアニストで、音楽院では、作曲科とピアノ科で学んでいました。そして、スクリャービンは音楽院で作曲科を修了することができませんでした。ラフマニノフとスクリャービンが卒業試験で火花をちらしたのはピアノ科だったのです。スクリャービンが19歳、ラフマニノフが18歳であった、1891年のことでした。
さしずめ二人共「首席卒業」
下馬評では、ピアノの魔術師ともいうべきスクリャービンの評価が高かったようですが、音楽院の試験結果は、紙一重の差でラフマニノフのほうが上でした。彼が大金メダル、スクリャービンが少金メダル、と伝わっていますから、さしずめ二人共「首席卒業」の資格を得ているのですが、ほんの少しだけ、ラフマニノフの評価が高かったということです。
ラフマニノフはこの時作曲科の卒業制作で作ったオペラ「アレコ」も金メダルを受け、最高の成績で音楽院を卒業します。作曲志向が強かったラフマニノフは順風満帆かと思われますが、その後の交響曲第1番の初演の評判の悪さから、かなり長いスランプに入ってしまい、作曲家として復活するのは20代後半でした。スクリャービンはちょうど同じ頃、ピアノ科の教授として母校に戻っていましたが、すでに作曲家としてもピアノ曲を中心にキャリアを積みつつありました。作風は、あくまで「ロマン派の延長」であったラフマニノフに対し、初期作品こそロマン派的でしたが、次第にハーモニーも現代的・神秘的なものに変化していったスクリャービンは独特の世界を築きました。
その後、スクリャービンは若干43歳で亡くなってしまいますが、ラフマニノフは混乱の祖国を離れ米国に渡り、69歳の天命を全うします。いろいろな点で、対照的だったため、それほどの親交もなく、結果的にかなり異なった人生を歩んだ二人ですが、プロフェッショナルの音楽家への門出としての「音楽院卒業」の時点でだけ、二人は一瞬同じ場所にいたのです。
卒業は学生としては終わりの節目ですが、プロフェッショナルのキャリアとしては、門出に過ぎない・・・そんなことを思わせるエピソードです。
本田聖嗣