アイデンティティ政治による分断と「画期的でない」解決策

■『アイデンティティ-尊厳の欲求と怒りの政治-』(著・フランシス・フクヤマ 朝日新聞出版)


   4年前の2月、アジア某国での会議で、米国の講演者が直近の選挙結果を受け、「私はまだ彼(トランプ)を大統領と呼びたくない」と述べたのを印象深く覚えている。オバマケアの後退を憂慮する講演内容には共鳴するも、軽蔑的ニュアンスも含むその口調に当惑した。また自国内では対立するも外国には一枚岩の姿勢を見せる(ように感じる)米国人にしては珍しい姿勢(しかもアジアで)に、彼の国の政治的分断の激しさを見た。

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集団の垣根を超えた見解や感情の共有が失われている

   本書は1990年代のベストセラー「歴史の終わり」の著者が、米国をはじめ世界で見られるアイデンティティ政治を分析し、解決策の提示を試みたものである。

   冒頭で著者は「歴史の終わり」で述べた、現代の自由民主主義諸国が『テューモス』-尊厳の承認を渇望する心の働き-の問題を完全には解決しておらず、ナショナリズムも宗教も世界政治の勢力として姿を消すことはないと書いていたことを指摘する。

   そして『テューモス』の2つの形式である『アイソサミア(対等願望)』と『メガロサミア(優越願望)』の間には緊張関係が内在し、それが明確に表れたものとして、1990年の「自尊心と個人の社会的責任を促進するカリフォルニア特別委員会」報告書を引き合いに出す(第10章)。アイデンティティの不可侵性をベースに全ての人の本質的価値や自尊心を認めるべきという考え方と、自尊心には社会的責任や他者への尊敬といった「性格の高潔さ」も含まれるべきとする考え方の両方が示された報告書に対し、人は高潔なばかりではなく、全ての人を等しく尊ぶことはあり得ない矛盾があると批判された。しかしながらこの報告書を一例として、その時代に自尊心への関心が高まり、アイデンティティ政治を根付かせることの一助になったと説く。

   そしてソーシャルメディア等によって、様々な「生きられた経験」-外部の人にはわからない特定の集団独自のアイデンティティ-の数が増える一方、集団の垣根を超えて見解や感情が共有される可能性が急速に失われていると説く(第11章)。マルクス主義や社会民主主義の限界が明らかになる中で、左派はアイデンティティ政治を受け入れた。そのこと自体は必要であった一方で、格差の是正の道を考えることよりもエリート内での議論に関心を向かわせ、古くからある大きな集団が抱える問題-例えば白人労働者層の貧困の問題-への注意をそらし、理性的な対話を脅かしかねないようになったと述べる。さらにはポリティカル・コレクトネスの台頭により、それへの反発という右派の結集材料を生み出し、自らが不当に差別されているという主張が右派の間でも共有されることで、交渉の余地のない状況にまで至ったと分析する。

   解決策として述べられていることは全く画期的ではない。むしろ左右両方の穏健派が常識として抱き、近代の人類の歴史の中で育まれた営為をブラッシュアップするに過ぎないようにも評者には思えた。ネット上を飛び交う容赦のない表現の前にはその考えは非力なようにも思われるが、同時に著者の考察の着実さへの共感も抱いた。

   米国では国民皆保険をめぐる姿勢が政治的分断の一つの材料となっている。このことの不幸は、新型コロナウイルス対応にかかる米医療制度の批判にも見いだせる。国の根幹である社会保障を、国民の間の特定のアイデンティティを基に分断する材料にしてはならない。厚生労働官僚の性か、読後にはそうした感想も持った。

厚生労働省 ミョウガ

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