ゆず、「YUZUTOWN」
「都会」でも「田舎」でもない「街」に息づく
タケ×モリの「誰も知らないJ-POP」
もし、その人のキャラクターを育った「環境」で分けるとしたら、「都会育ち」と「田舎育ち」になるのかもしれない。「都会っ子」と「田舎っ子」ということになる。
片や流行に敏感で着るものや普段の所作も洗練されて垢ぬけている。もう一方は素朴で人情に厚いものの新しいことにはうまく適応できない。
でも、そんな風に二分することもないのだと思う。「都会っ子」という括りとは別に「街っ子」というカテゴリーがあることを忘れてはいけない。
なぜ、そんなことを書いているかというと、ゆずの新作アルバムのタイトルが「YUZUTOWN」だったからだ。
「都会」ではなく「街」。ゆずは、その申し子なのだと改めて思った。
「路上出身」のオリジネーター
「紅白歌合戦」の大トリを務めるまでになった二人を今更、こんな風に書く必要もないのだろうが、ゆずは、北川悠仁と岩沢厚治の二人組。神奈川県横浜市立岡村中学校の同級生だ。小学校も同じである。
元々は同じ4人組のロックバンドで北川悠仁はドラムを叩き、岩沢厚治がヴォーカルだった。他のメンバーと足並みが揃わずバンドは解散、96年に二人組のデユオとして路上に出るようになった。
彼らが歌っていたのは横浜伊勢佐木町のデパート、横浜松坂屋前である。噂を聞きつけたレコード会社に誘われ、97年にインディーズデビュー、98年にメジャーデビューした。路上の最終日には、台風の中で7000人余りが商店街を埋め尽くしたというエピソードはすでに「平成音楽伝説」になっている。彼らは自ら「平成爽やかフォークデユオ」と称していた。
ただ、99年に初のNHKホールで彼らを見た時に感じたのは「フォーク」という印象ではなかった。バンドを従えていたこともあるのだが、二人の歌と演奏のスピード感が従来の生ギターの「フォーク」とは違った。特に北川悠仁のたたみかけるようなヴォーカルのスリリングな性急さは明らかにロックだった。初めてのインタビューの時に、バンド時代にX-JAPANやBOO/WYをコピーしていたと聞いて納得した覚えがある。
それから20年余り、「路上」というのはすでに音楽活動の場として定着し、彼らの後を追うかのように、関西からはコブクロ、地元神奈川からはいきものがかりも登場。「路上出身」は、一つの勲章になり、ゆずはオリジネーターになった。
「街の中で暮らす人たちの息遣いとか葛藤とか...」
話を「街っ子」に戻そう。
「都会」と「街」はどう違うか。
オフィスビルやホテルなどの高層ビルが立ち並び、高級店がしのぎを削るのが「都会」だ。人々はどこか身構えてよそ行きな表情で通り過ぎて行く。「街」はそうではない。通学の学生もいれば買い物する主婦も家族連れもいる。そこには「生活」がある。
ゆずのライブを見て何よりも感動したのは、その「人好き」にあった。聞き手と仲良くなりたいという「人懐っこさ」。「庶民性」というだけでは収まらない気遣い。コンサート開演前に客席に「ラジオ体操」が流れるのもその表れだろう。客席も警備のスタッフも全員がラジオ体操をする。夏休みや休日に商店街の広場でみんなが集まってするようにだ。雰囲気がくつろいだところに二人が登場してライブが始まって行く。
客席には中高生はもとより若いカップルや家族連れ、更には未就学児童を交えた三世代組も少なくない。誰もが屈託ない笑顔で一緒に歌ったり身体を動かしたりしている。その幅広さは変わらないどころかますます広がっている。それは、コンサート会場の光景というより、そこに一つの「街」が誕生しているようでもある。
もちろん変わったことはある。
何よりもライブの規模はデビュー当時とは比較にならない。すでに東京ドームは2000年の「ふたりのビッグ(エッグ)ショー」以来4回を数え全国ドームツアーも2回行われている。地元横浜では日産スタジアムや横浜スタジアムでも歌った。
同じドームコンサートでも毎回趣向が変わる。約30万人を動員、日本のコンサート史上初めてだった去年の弾き語りドームツアーは、路上の延長のように素朴なステージだった2000年と違い、壮大な照明やセットにテクノロジーを駆使したまさに進化形という印象だった。
ただ、そうやって規模や環境が変わって行く中で、二人のライブへの取り組みは全く変わらないようだ。
初めて彼らを見た時、ともすれば業界的な覚めた目で見るこちらの肩を両手で揺すり続けるような一途な熱に胸を打たれた。なかなか開かない扉を力の限り叩き続けてゆく完全燃焼はもはや「フォークやロック」というジャンルを超えている。
新作「YUZUTOWN」は、彼らのそんな軌跡を再認識させるようなアルバムだった。
北川悠仁は、オフィシャルインタビューの中で、テーマを決めずに曲を作って行った中でこうなった、とこんな話をしている。
「大きな『国』や『世界』ではなくて、街の中で暮らす人たちの息遣いとか葛藤とか、出会い別れ、そういうものを表現している曲が多かったということが『TOWN』というコンセプトに結びついていったんです」
「曲がどうなっても根っこは変わらないな」
彼らが20数年の中で変わっていったことの一つに「歌の大きさ」があった。町内会の伝言板のような身近な出来事や友達に伝えたいこと。路上で歌っている中で感じたこと。そんな個人的な歌が、成長するにつれて少しずつ大きくなった。
例えば「故郷」であり「地球」であり「世界」、更に、「命」である。そうした根源的な視点も踏まえた応援歌。前作の「BIG YELL」は、そんな到達点のようなアルバムだった。
新作は、一曲目の「SEIMEI」こそ「命」をテーマにしているものの、二曲目は彼らの地元横浜の代名詞のような「チャイナタウン」。3曲目は「花咲ク街」だ。カレーをテーマにした8曲目の「イマサラ」は、インドの街を連想させる。曲の合間には「Pinky Town」「Yellow Town」「Green Town」というインタールードも入っている。アルバムの最後は、一番最初に出来たという「公園通り」。横浜伊勢佐木町の路上出身の彼らが初めて東京でワンマンライブをした場所なのだそうだ。
デビュー22年。やはりオフィシャルインタビューで二人はこんな話もしている。
岩沢「弾き語りとして作って演奏もした曲を、さらにリアレンジ して曲をグレードアップさせるっていうその過程に、ゆずが歩んできた道のりを感じてもらえると思うし、僕らとしても、曲がどうなっても根っこは変わらないなっていう強さの部分を再認識しましたね」
北川「僕は青春時代が良かったとは必ずしも思ってなくて(笑)。 初期の曲も青春時代が終わった後に書いたものが多いんです。もう戻れないなっていう感覚で。でもその時は心のどこかで戻りたいっていう気持ちがあったんでしょうね。前に進んでいく恐怖心みたいなものもあっただろうし。でも今はそういう恐怖心なんてまったくない」
どうなっても根っこは変わらない。前に進んでゆく恐怖心は全くない。それは、いつでも「街」に帰ることが出来るという確信があるからではないだろうか。
「都会」でも「田舎」でもない「街」。そこにはいつもあの日の自分とこれからの自分が息づいている。そこに暮らしている人たちとともにだ。
(タケ)