早熟の天才F.クライスラー 米国で着想した「中国の太鼓」
ヴァイオリンの名演奏家として名高いフリッツ・クライスラーは、作曲家としても人々に愛される作品をたくさん残していますが、今日は、世界の注目が集まっている「中国」・・・アジアの超大国として存在感はもともと抜群ですが、現在、いろいろな意味で激しく世界に影響を与えている国・・・をタイトルに入れたヴァイオリンとピアノの小粋な小曲、「中国の太鼓」を取り上げましょう。
パリ音楽院を12歳で首席卒業、来日も果たした
1875年、ウィーンに生まれたクライスラーは、ユダヤ系オーストリア人でした。音楽の才能を早くから発揮するユダヤ系の音楽家はたくさんいますが、クライスラーの早熟ぶりは群を抜いていて、地元の名門ウィーン音楽院には特例で7歳で入学し、わずか10歳で首席卒業。その後はフランスの名門、私の母校でもあるパリ音楽院に入学して、これまた弱冠12歳で、首席で卒業してしまいます。翌1888年には1年に及ぶ米国ツアーに出発して、成功させます。
あまりにも早熟な天才ヴァイオリニストだったため、翌年ウィーンに戻った後、父親のすすめで医学を学ぶために学校に通ったり、軍隊に入隊したりしました。しかし音楽への情熱は止むことなく、1896年ごろから再びヴァイオリニストとして本格的に活動を始め、ロシアへの演奏旅行や、1899年、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団との共演で、大成功を収めます。
1901年には再び米国ツアーに出発、その間に英国・ロンドンでもデビューを果たし、いずれの演奏会も大きな成功を収めました。かなり後のことになりますが、1923年には来日しており、この時は日本でも大人気でした。なぜなら、事前にレコードで彼の演奏が伝わっていたからであり、20世紀初頭の米国というテクノロジーの最先端の場で、積極的にレコーディングにも取り組んだ結果と言えましょう。クライスラーは上記のようにユダヤ系だったため、戦争により欧州では身の危険を感じることになり、最終的にはフランスを経て米国に移住し、ニューヨークでその生涯を終えています。
4分に満たない小品も「おしゃれ」な感じが満載
そんなクライスラーが、1910年、自らの演奏会で演奏するために書いた小品が「中国の太鼓」です。曲は、伴奏のピアノが太鼓を模した同じ音の連打で始まり、その上でヴァイオリンが中国風で軽やかなメロディーを奏でる主部でスタートします。中間部は、中国の伝統楽器の模倣のような、ゆったりとした旋律がヴァイオリンパートに現れます。再び、冒頭と同じ軽快なパッセージが回帰して、最後は軽い足取りで遁走するようなユーモラスな表現で終わる・・・という4分に満たない小品なのですが、ヴァイオリンの超絶技巧を必要とする華やかさや、コミカルさと優雅さがほどよくブレンドされた「おしゃれ」な感じが満載です。現在でも、「美しきロスマリン」や「愛の喜び」といった曲と並んで、クライスラーのヴァイオリン・ピースとして愛好され、頻繁に演奏会で取り上げられます。
日本にやってきたときと同じ時期に、中国でも演奏旅行を行っているクライスラーですが、「中国の太鼓」・・・実はこの原題はフランス語でつけられています(クライスラーの母国語はドイツ語です)・・・を作曲した時には、中国はまだまだ「はるか彼方のアジアの大国」でした。
実は、クライスラーはこの曲を、米国サンフランシスコのチャイナタウンを訪れたときに着想していたのです。非アジア圏では最大規模の、そして、全米で最古でもあるサンフランシスコの中華街は、日本の歌謡曲にも歌われたぐらい有名で、彼は全米ツアーの時に訪れ、中国劇場で中国風の演劇を楽しみ、あたかも中国に居るかのような雰囲気を味わい、楽想が湧いたのです。もちろん、優れた作曲家であったクライスラーは、単純にそこで聞いた旋律をそのまま自作に拝借する、というようなことはしていません。あくまで、彼が考える「中国的な雰囲気」を持ったファンタジーを、楽しみながら作曲したのです。それは、「欧州人から見た中国」かもしれませんが、中国の京劇の音楽などに見られるリズミカルさを要素として取り入れつつ、優雅で小粋な・・・つまり彼の故郷ウィーンに通じる雰囲気も盛り込んだ「中国の太鼓」は、国境を超えて人気曲となったのです。
本田聖嗣