「英王室作曲家」となったヘンデル ジョージ2世の戴冠式に作られた「司祭ザドク」
英国がついにEU(欧州連合)を離脱しました。離脱に伴う一番の変化は、欧州共同体の一員でなくなり、改めてそのEU加盟各国を含む世界中の国と、新たなる貿易協定や、人的交流のルールを定めることですが、これは今後11か月の「移行期間」を設けて協議する、ということになっているので、離脱後すぐに社会の変化が訪れるわけではありません。しかし、2度の世界大戦のきっかけとなった欧州域内での争いへの反省から、戦後進められてきた「欧州共同体」という枠組みから大国である英国が離脱した、という事実は今後世界にじわじわと、かつ大きく影響を与えそうです。
国境を越えた共同体、という理想が、身近な移民問題や、雇用不安、共同体への負担金の問題などで、国内的に支持が得られなかった・・・ということの結果ですが、他の世界の国を見回しても、今後もこういった「反グローバル化、右傾化」の流れは加速しそうです。
「ドイツ人」ヘンデルが英国に帰化し「ハンデル」に
音楽は国境を越える、とよく言いますが、確かに、言語よりは、他国でも通じやすいのが音楽です。しかし、音楽の好みというのは周辺文化や宗教や習慣、はたまたその土地の気候などにも影響されるので、やはり「国境はある」といってよいと思います。つまり、「国際的」な音楽家になることは大変難しいのです。クラシック以外でも、日本で大成功したスターが、米国でも成功するとは限らない・・というような例がたくさんあります。
音楽の父、ヨハン・セバスチャン・バッハでさえ、本人はフランスやイタリアなど、いろいろな周辺国の音楽スタイルに通じ、自由自在に作品を生み出していたにもかかわらず、本質的には「北ドイツの作曲家」にすぎませんでした。それが、死後地元でも急激に人々の記憶から消え、メンデルスゾーンによって復活上演されるまで、約100年もの間忘れ去られていた存在となった一つの原因だと思われます。フランスの宮廷で権勢を誇ったラモーやクープランという人たちも、他国ではあまり有名な存在ではありませんでした。リュリやD.スカルラッティなど、自分が奉仕していた王族や貴族が外国へ転封やお輿入れになって、それに伴い国を移動した例はあるものの、交通機関も未発達で、他国との実質距離も遠かったクラシック音楽の黎明期には、なかなか「国際的音楽家」というのは成立しえなかったのです。
そんな中で、史上初めての、「真の国際的作曲家」と言えるのが、J.S.バッハと同時代人で、「音楽の母」とも呼ばれるゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルです。今日は、彼の「司祭ザドク」という作品を取り上げましょう。
この曲は、英国王、ジョージ2世の戴冠式のために書かれた聖公会の聖歌(アンセム)の1曲です。この曲を作曲した時には、ジョージ・フレデリック・ハンデル、つまり英国に帰化し、英国人となっていたヘンデルですが、生まれは、現在ドイツに含まれるブランデンブルク=プロイセン領のハレというところです。出生地主義で言えば「ドイツ人」となるため、原語の読み方を尊重し日本では「ヘンデル」とドイツ語読みされているのです。オランダ系のベートホーフェンが、ドイツのボン生まれのためベートーヴェンと呼ばれているのと似ています。
結局は北ドイツを一歩も出なかったバッハと違い、ヘンデルは、74歳の生涯のうち、4年をイタリアで過ごし、人生の後半48年をほぼ英国で過ごしています。イタリア時代は「留学」や「長期滞在」と言えなくもありませんが、英国には、帰化してしまったこととあわせ、「移住」としか言いようがありませんし、大事なのは、その異国の地である英国で、作曲家として、指揮者として大活躍し、作品の大部分を生み出しているからです。他国で、しかも人々の好みが反映する「音楽」というものを生み出して人気を得る・・それは現在から想像する以上に大変なことだったに違いありません。ヘンデルはそれを成し遂げ、生前から尊敬され、没後すぐの時点から、神格化さえ始まっているのです。つまり、彼は本当に国境を股に掛けて複数の国で大きな足跡を残した「国際的作曲家」と言えるのです。
20歳の頃イタリアに旅立つ
ヘンデルが生まれたのは、バッハと同じ1685年です 誕生日も1か月ほどしか違わず、生まれた街であるハレも、バッハの生誕地アイゼナハからわずか100キロほどしか離れていませんでした。若かりし頃、ドイツの大オルガニストにして作曲家、ブクステフーデの音楽に影響を受けているところも似ています。
しかし、ドイツにとどまったバッハと違い、ヘンデルは20歳の頃、イタリアに旅立ちます。そこはルネッサンス以来の音楽先進国であり、オペラの母国でもありました。ヘンデルはイタリアで、ローマでは宗教的なオラトリオを学び、同地で作曲すると同時に、一般の人向けのどちらかというと娯楽である「オペラ」というスタイルにもフィレンツェやヴェネツィアで触れたりと幅広い勉強をし、同時に作品も残しました。時には現地の名高い作曲家と「チェンバロで対決」などというスペクタクルめいたことまでやっています。宗教的作品が圧倒的に多い、ドイツから出なかったバッハと、宗教的なものも娯楽的なものも、自由に筆を振るうヘンデル。この頃から差異が現れたといってもいいでしょう。
3年半のイタリア滞在から帰国し、1710年、25歳のときに、北ドイツハノーファーの宮廷楽長になったヘンデルですが、その年から、より活躍の場を求めて、オランダ経由で英国の首都ロンドンに足を運ぶようになります。1710年とはロンドンのセント・ポール大聖堂の修復が終わった年で、同時に産業革命の直前・・・トマス・ニューコメンが蒸気機関を発明するのは1712年のことです・・・でもありました。音楽的には、英国・バロック最大の作曲家の一人、ヘンリー・パーセルが亡くなって10年以上たち、「お雇いイタリア人」が幅を効かせていたのですが、「英国の音楽」は、その社会の変革とともに、復活しようとしていました。オーストリアやフランスのように宮廷や貴族や教会だけが音楽を作るのではなく、一般の人々が裕福になって「音楽会に行く」という存在となり、音楽の新たなる市場を生み出しつつあったのです。そして、そこで求められた「英国音楽」の復活に大きく貢献したのが、外国からやってきて「英国人になった」ヘンデルという、誠にエネルギーに溢れた音楽家だった、といっても過言ではないのです。
偶然ですが、ヘンデルがハノーファーで使えていた王家、ハノーファー朝は、英国王家の親戚筋で、英国王位を狙っていました。そのため、ヘンデルがいち早くロンドンで、時のアン王女に気に入られると、ハノーファーの宮廷もヘンデルに長期休暇を与え、ロンドンでの活躍を後押しします。ドイツに籍を置きながらも英国で、王家や民衆のために作曲して活躍するヘンデルの舞台は整ったのです。
UEFAのチャンピオンズリーグのアンセムに
英国王家の式典音楽は外国人が担当してはならない、という法律があったにも関わらず、アン王女はそれを曲げて、ヘンデルに作曲依頼をし、彼は「アン王女誕生日のためのオード(頌歌)」という曲を、1713年に作曲します。更にそれを気に入った王女は、スペイン継承戦争の終わりを記念する音楽をヘンデルに依頼し、それに立派な作品で応えたヘンデルは外国籍のまま「英国王室公式作曲家」となります。
他方、女王によってオペラ座支配人を紹介されたヘンデルは、劇場のためにも、「リナルド」などの名作オペラを生み出し、人気オペラ作曲家としての地歩も着々と築いていったのです。
まだまだ外国人という立場で、ロンドンのヘンデルはおそらく悩んだはずです。教会や宮廷のための宗教音楽や典礼音楽という分野に特化するか、ロンドンという経済的に勃興する都市の民衆向けオペラに傾注するか・・・そして、ハノーファーに決別して、英国にとどまるか、行ったり来たりするかも・・・と決断すべき要素がたくさんありました。
そして1714年、アン女王が逝去し、なんと、その後をハノーファー選帝侯ゲオルグ・ルードヴィヒが継ぐことになります。英国王ジョージ1世として、即位するのです。ハノーヴァー朝の始まりです。第一次世界大戦のとき敵国の名前はまずいと、ウィンザー家と改称されていますが、基本的に現在まで続く英国王家の血筋です。今回のブレグジットを皮肉ったBBCの教育用動画でも、ヴィクトリア女王に扮した女性に紅茶をサーブする男性が「紅茶はインド由来、砂糖はカリブ海から、そして女王ご自身も外国から!」と言っていますが、まさにこのことを指しています。
そして、ドイツから来たハノーヴァー朝初代ジョージ1世のもと、1723年には王室礼拝堂作曲家にも任命され、いよいよ英国での活躍の場が広がってくると、1727年2月、英国に帰化して「ジョージ・フレデリック・ハンデル」となります。そして、その年の6月、ジョージ1世が没すると、次のジョージ2世の戴冠式のために、壮大なアンセム(もとは英国聖公会の賛美歌・・転じて儀式・典礼のときなどに使う讃歌)を作曲します。
4曲ある曲のうち、特に豪華な響きとともに始まる1曲目の「司祭ザドク」は、旧約聖書、ダビデ王の時代に生きた司祭を描写した一節が歌詞として採用されています。ザドクは、名君主として評判の高いソロモン王に聖油を注いで戴冠させた司祭であり、英国王室の戴冠の場にふさわしい題材として選ばれたのです。実際の戴冠式では、ヘンデル以外の作曲家の作曲した作品も当然使われたのですが、実際にジョージ2世が聖油を注がれて聖別される時に作曲者ヘンデル自身の指揮によって演奏されたこの曲は、大評判となり、その後の英国の王の戴冠式では必ず演奏される慣例となりました。
ヘンデルは、この曲によって、英国風の合唱曲・・それは言ってしまえば「パーセルスタイル」ともいうべき形式ですが・・・を作曲できることを証明して見せ、いわば、「真の英国の作曲家」として地位を揺るぎないものにしたのです。
歴代の王の戴冠式を彩ってきた「司祭ザドク」は、アレンジが加えられて欧州サッカー連盟、略称UEFAのチャンピオンズリーグのアンセムとしても採用されています。日本でもサッカーファンなら必ず耳にしたことがある名曲です。アレンジバージョンでは、英語、仏語、独語の歌詞が付けられてUEFAらしい「国際的なアンセム」となっていますが、そのオリジナルは、「史上最初の、正真正銘の国際的作曲家 G.F.ハンデル」の、記念碑的作品なのです。
英国がEUを離脱したいま、あらためて軽々と国境を超え、「音楽に国境はない」を実践した、「真の国際人ハンデル」に思いを馳せながら、聴いてみたい名曲です。
本田聖嗣