ブラームス唯一の「ピアノ五重奏曲」 「慎重な天才」ぶり味わえる傑作
今日は、試行錯誤をするブラームスを象徴するような作品、「ピアノ五重奏曲 Op.34」の登場です。
ピアノ五重奏曲、という室内楽は、ヴァイオリン2本、ヴィオラ、チェロの「弦楽四重奏」の編成にピアノを加えたものです。弦楽四重奏は、弦楽室内楽の最もポピュラーな形ですが、それにピアノを加えたピアノ五重奏は比較的珍しい編成で、ピアノ三重奏や、ピアノ四重奏(それぞれ、ヴァイオリン+チェロ、ヴァイオリン+ヴィオラ+チェロの弦楽器とピアノです)といったメジャーな室内楽に比べて、ずっと曲数も少なくなります。
ブラームスはこの曲を1865年、32歳のときに完成させていますが、これには様々な紆余曲折がありました。
「遅咲き」43歳で最初の交響曲第1番を完成
ブラームスは1833年、北ドイツのハンブルクに生まれていますが、19世紀の幕開けとほぼ同時に花開いた「ロマン派」の文化・・それは、音楽だけでなく、文学や、絵画など他の芸術も含んでのものでしたが・・・の中にあっては、「遅れてきた才能」でした。音楽に限って言えば、1810年前後にメンデルスゾーン、ショパン、シューマン、リスト、といった巨大な才能が生まれており、それ以前には、古典派の音楽を集大成してロマン派の扉を開けたシューベルトやベートーヴェンが立ちはだかっていたからです。彼らの魅力あふれる曲たちを超える新曲を生み出さなければならない・・・現在の我々より遥かに「彼ら」が身近に感じられる時代だったからこそ、ブラームスが作曲家として受けるプレッシャーは相当なものだったはずです。
ただし、若くて才気あふれるブラームスは、先輩のシューマンとその妻でピアニストのクララ・シューマンに認められ、シューマンが書いていたメディアで紹介してもらうなど、「下の世代」ならではの恵まれた状況もありました。
作曲家を志すブラームスにとっては、本当に彼らが「立ちはだかっている」ように感じられた、というのは誇張でもなんでもないような気がします。その証拠に、彼は、自己批判と自制の心が強く、自作を推敲に推敲を重ねるまで世に出そうとしなかったのです。最初の交響曲第1番を完成したのがやっと43歳のとき。遅咲きの原因はベートーヴェンの「究極の9曲」の交響曲があまりのも完成度が高く、それを凌駕できる交響曲を書く自信がなかったから、と広く信じられています。
しかし、私はこの説には懐疑的で、ブラームスは、ひょっとしたら、交響曲をもうすでに古い形式、と感じていたからではないかと考えています。皮肉なことに結果的にブラームスは、素晴らしい交響曲を4曲も書いてしまい、「交響曲の伝統」はさらにフォロワーを生むことになるのですが。
恩人クララ・シューマンからの助言
話がそれました。ブラームスが自分の才能に自信があり、野心的ではあるが、大変慎重な作曲家であったことは間違いありません。有名な作曲家ではシューベルトかグラズノフぐらいしか書いていない「弦楽五重奏曲」(ヴァイオン2本+ヴィオラ+チェロ2本)という編成の曲を1862年にまず構想したのです。シューベルトの「弦楽五重奏曲」が、「ミニ交響曲」とでもいうべき大規模かつ素晴らしい曲だったので、それに触発されたのかもしれませんが、ブラームスのこの試みは頓挫します。試しに演奏してもらったところ、あまり評判が良くなかったのです。そのためこの作品を世に出す(出版する)ことをスッパリと諦めるのですが、編成を変えて、なんと2台のピアノ・ヴァージョンとして、世に問います。
ブラームスはこの頃から、音楽の都ウィーンに居を移して、活躍の機会をうかがっていました。故郷ハンブルクで、就任を望んでいた指揮者のポストが得られなかったため、音楽家として一段上を目指すには、ウィーンは最適だったのでしょう。そして、ウィーンで知己となったカール・タウジヒというピアニストと2人でこの曲を初演したのでした。
しかし、そこで、恩人でもあり親しい友人でもあるクララ・シューマンなどから、やはりこの曲はピアノと弦楽器の曲であるほうがふさわしい、とのアドヴァイスを受け、ブラームスはついにピアノ五重奏として、完成させるのです。
この曲は、彼が生涯で唯一書き上げた「ピアノ五重奏曲」となりました。やはりピアノ三重奏や四重奏に比べて、特別な編成の曲だったわけです。
第1楽章や、第3楽章はまだ30代の若いブラームスの、ある意味ダークなエネルギーが溢れる一方で・・・これは初期のブラームスに特徴的なカラーなのですが、彼の「若く燃えたぎる野心」が感じられます・・・、第2楽章は、彼ならではの叙情性に満ち、全体としてブラームスの「慎重な天才」ぶりを十分に味わうことのできる傑作となって現代に伝わっています。
前述の2台ピアノ用ヴァージョンも出版されたので、ごくまれに演奏されますが、「ピアノ五重奏曲」の方は、この編成の代表曲として取り上げられることも多く、より親しまれています。
本田聖嗣