バッハ作曲、マーラー編曲「管弦楽組曲」 超マイナーになってしまったわけ

   今週は、ある意味先週と同じ曲が登場です

   バッハの「管弦楽組曲 第3番」の中の「エアー(アリア)」が、ヴァイオリニストのA.ヴィルヘルミによって調を変えられ、「G線上のアリア」として単独で演奏されるようになり、この曲のみが少し姿を変えて有名曲となったことを取り上げましたが、今日とりあげる曲は全く逆で、「編曲されたことによって超マイナーな存在となった」パターンです。

   「G線上のアリア」は、ヴァイオリンの4本の弦のうち、ただ1本の弦だけを使って演奏できる、という「ヴィジュアル上の特徴」があるために、バッハ本人が聞いたら驚くぐらい原曲とは違う題名が付けられていますが、今日取り上げる曲は、「バッハ作曲 管弦楽組曲」とオリジナルとほとんど同じ題名で呼ばれています。

円熟期のマーラーの写真
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演奏するだけでは足りず「編曲してみよう」

   編曲したのは、後期ロマン派の交響曲作曲家にして、熟練の指揮者でもあったグスタフ・マーラーです。なので、正確には、「バッハ作曲、マーラー編曲 管弦楽組曲」と表記しなければなりません。しかし、ただの編曲ではないので、「マーラー版 バッハ作曲『管弦楽組曲』」と表記されることが一般的になっています。ややこしいですね。

   このような、「少し改変を伴う編曲」が、しばしばクラシック音楽では作られます。

   過去の偉大なる先輩たちの素晴らしい作品を演奏するのが「クラシック音楽」というジャンルであり、多くの演奏家の努めです。しかし、マーラーのように演奏家・指揮者で、同時に作曲家でもある・・それも歴史に名を残すほどの・・場合、演奏するだけでは飽き足らず、しばしばそれを「編曲してみよう」となるようなのです。この例だけでなく、数多くの作曲家が先達の作曲技術の勉強のため、または自分好みの演奏のために、編曲を手掛けています。バッハの管弦楽組曲も、他に、指揮者として有名なレオポルド・ストコフスキーなどが手掛けています。

   マーラーがバッハの管弦楽組曲を編曲したのは1909年、彼が49歳のときでした。作曲家としては、最後の完成した交響曲となる「交響曲第9番」を完成させていた時期で、指揮者としても、ウィーン・フィルハーモニーとの長年の確執から常任指揮者のポストを辞任し、新しく新大陸アメリカのメトロポリタン・オペラに招へいされたあと、ニューヨーク・フィルハーモニックの指揮者を引き受けたところでした。つまり、作曲家としても指揮者としてもすでに頂点を極めたといってよい時期であり、指揮者としても作曲家としても脂の乗り切った時期だったのです。実は、40代後半で心臓病と診断されていたマーラーは、厳しい練習態度のため度重なるオーケストラとのギクシャクや、若い妻をもらったことによる家庭内の不安、そして、交通手段は船しかなかった当時の状況での大西洋を股にかけての活躍などがたたって、51歳になる直前に亡くなってしまうので、「晩年」でもあったのですが、本人は知る由もありません。

大胆な再構成が「やりたい放題」と評価されず

   マーラーが、おそらく、自分が指揮する演奏会のために編曲した偉大なるバッハ作品、それが「管弦楽組曲」でした。しかし、その編曲方法は一風変わっていて、「第2番」と「第3番」から気に入った組曲を抜き出して順番を入れ替えたり、組曲を合体させたり、と大胆に再構成し、演奏に使う編成もバッハの頃では考えられない19世紀的なものに変えたのでした。

   バロック時代の「管弦楽」を想定していたバッハの原曲を、マーラー版では、近代のオーケストラ的な大きな編成で演奏することにした一方、19世紀にはもうすっかり廃れていた「通奏低音」というパートのために、チェンバロかピアノ、それにオルガンを加える、というものでした。通奏低音というのは、バロック音楽の時代、和音が簡単に出せる鍵盤楽器でハーモニーを奏で、旋律楽器である弦楽器の演奏の「和音による下支えをする」というもので、オーケストラ編成が完成した古典派後期以降はすっかり廃れた形態でした。それを、あえて復活させているのです。

   オリジナル作品をもって最高かつ至高のものとするクラシック音楽では、マーラーの編曲はかなり「やりたい放題」と捉えられました。なぜなら、一方で20世紀初頭の音楽環境・楽器性能を十分に生かしながら、一方では何故かバロックの残滓のような通奏低音も用いているからです。もちろん、マーラーはそれらの改変が演奏上十分に効果的だからということで、バッハの作品を「再解釈」したのですが、現在では、この「マーラー版」は時代がどっちつかず・・つまり現代的でも古典的でもない・・・ということもあり、あまり評価されてはいません。音や調を変えたりした「再解釈という名の編曲」ではなく、あくまで音はそのままで、編成や構成に手を加えた「マーラーという個性によるオリジナル解釈に基づいた形態変更」であったための、皮肉な結果と言えましょう。

しっくりこない「マーラー風バッハ」

   一方で、「G線上のアリア」という演奏技法上の個性を付け加えた変更は、人々に受容され、原曲より有名になったのに、マーラーによる「バッハの管弦楽組曲」は、現代でも演奏される機会も少ない「レアレパートリー」となってしまっています。たしかに、マーラー版が演奏できるなら、同じ編成で容易にバッハのオリジナル版は演奏できるわけですし、あえて、「第2番」と「第3番」をごちゃまぜにしたマーラー版を演奏する理由は薄いからです。

   マーラー版の第3楽章のアリア・・いわゆる「G線上のアリア」で知られたオリジナル管弦楽組曲の第3番の「エアー」は、マーラーのオーケストレーションのせいで、「あれ?マーラーの交響曲の一部かな?アダージエットの続編?」と聴こえてしまったりもします。それはそれで面白いのですが、なんだか「マーラー風バッハ」を聴いているようで、やっぱりしっくりこないのです。マーラー作品なら彼自身の交響曲などを聴いたほうが明快ですし、バッハ作品は完成度が高いので、他人の手が入ると、やっぱり少し違和感があるのです。

   しかし、長い歴史の中には、このように、「編曲された無名なバージョン」も存在します。明快なようでいて複雑な、そんな怪しさも、クラシック音楽の面白さの一つかもしれません。

   実は、オリジナルであるバッハの『管弦楽組曲』も、バッハ自身は鍵盤楽器で演奏する「フランス組曲」や「イギリス組曲」のように「舞曲を組み合わせた組曲」と考えてはいなかったともいわれていますし、「管弦楽」とつけたのも後世の他人で、実は「室内合奏曲」として企画していた、とも推測されています。・・そう、つまり、バッハのオリジナルってなんだ?ということも、古い時代だけに本当はあやふやで、マーラーの「自由な編曲」も責められるべきではないのですが、オリジナルの問題は、また複雑なので、それはまた別の機会にしましょう。

本田聖嗣

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