ミーハー魂 東郷かおる子さんが働く女性に説く「ときめき」の大切さ
日経ウーマン11月号の「妹たちへ」で、音楽評論家の東郷かおる子さんが「ミーハー魂」の大切さを説いている。それを持つことで「生き生きと輝ける気がする」と。
女性の著名人が、読者であるキャリアウーマンに3回連載でエールを送る企画で、東郷さんは本号が最終回。ここまで、ロック大好き少女が音楽系出版社に入り、ミュージック・ライフ(ML)誌で活躍、やがて編集長として、ほぼ無名だったクイーンを紹介するなどの活躍が描かれた。最終回は、独り立ち以降のキャリアを振り返っている。
「洋楽ロックは、1970年代後半から80年代にかけて黄金期を迎えました」...この冒頭に続き、81年のMTV誕生、マイケル・ジャクソンやマドンナらのミュージックビデオ、CDや冠コンサートの普及といった業界世相がおさらいされる。
「私が編集長を務めていたMLなどの音楽雑誌もよく売れました。『会社を辞めようかな』と考え始めたのはその頃です」
「ミーハーの代表」を自任していた東郷さんは、自分がいいと思った音楽は読者もいいと感じるはずだと信じていた。実際その通りで、クイーンやデュラン・デュランなど、同誌の特集から日本と世界にはばたいたバンドもある。ところが38歳になった頃(80年代半ば)から、若い編集者たちとの感覚のズレを感じていたという。
「ヒップホップなど、新しい音楽のジャンルはどれも楽しいけれど、私はやっぱり、ロックが好きという揺るがない思いがある。それは私自身の、時代の音楽に対する思い入れが弱まっていることを意味していました」
追いかけ続けたご褒美
自分が素敵だと思った音楽で読者を増やしてきた。そんな自負があった。しかし気づけば「読者が好きそうなもの」を紹介していた。潮時を悟って、42歳で辞表を出す。
バブルの余韻が残る90年代初めのことだ。様々なメディアで書きまくり、数年間は会社員時代の倍の収入があったという。雑誌としてのMLは98年に休刊している。
クイーンのフレディ・マーキュリーの訃報(91年11月、享年45)は、独立から半年後のことだった。病状が思わしくないとみていたので、ニュース速報では泣かなかった。
「もうフリーだから、ジョン・レノンのときみたいに急いで追悼特集を作らなくていいんだ、と思ったくらいです」...その後に出演したラジオの追悼番組で、フレディ最後の歌声を聴きながら涙が止まらなくなった。
ご本人は「洋楽を追いかけ続けてきたことへのご褒美」と謙遜するが、昨年の映画「ボヘミアン・ラプソディ」に絡んで、「発見者」への取材が殺到したのは当然だろう。
「ロックとともに駆け抜けた喧噪の日々を振り返ると、私はただただ、ラッキーだったなと思います。もしツキを呼び寄せたものがあるとすれば、それはミーハー魂。時にはバカにされることもあるそれを、私は隠さずに生きてきました」
そしてメインのメッセージである。
「もっと自分の人生を面白がりたい。そのとき、ときめくものがあることは生きる力になると思う...いつの時代も世の中の事象をつくってきたのは女性のミーハー心ですから」
流行にかぶれるべし
「雑誌は売れたら営業のおかげ、売れなかったら編集のせい」(東郷さん)と言われる世界。ロックは男のモノという意識がまだ残る時代、彼女は人気誌の編集長を10年以上務めた。当時の読者は7割が男性だったが、編集長はなぜか三代続けて女性(星加ルミ子~水上はるこ~東郷かおる子)だった。
編集部にも女性が多く、取材先で「化粧くさい」と言われながら面白い企画を練っていた。「悔しかったらスターのひとりも育ててみたら」の心意気で。
そんな先駆者が説くキャリア人生は、万人向けではないかもしれない。だが「恥ずかしがらずにミーハーでときめこう」という結論は、応用が利きそうだ。
広辞苑によれば、ミーハーとは〈世の中の流行にかぶれやすいこと、また、そのような人〉。音楽雑誌の編集者なら、ミーハーは最低条件だろう。凡百とは違う図抜けたミーハーだからこそ、到達した境地があり、そこからしか見えない景色があるはずだ。
東郷さんが社会人になりたての70年前後、中学生の私は、ある意味クイーンの対極にあるカントリーロックに夢中になった。洋楽に関する情報のほとんどが、レコードや深夜放送の「音」だった時代の、粗野だが熱い感受性を思い出させてくれた全3回の半生記。私が音楽方面に進めなかったのは、「平凡な」ミーハーだったからと思われる。
冨永 格