きたやまおさむ「良い加減に生きる」
加藤和彦がいなくなって10年...
タケ×モリの「誰も知らないJ-POP」
「何よりも加藤和彦は私にとってライバルだった」--。
作詞家で精神科医、大学教授でもあるきたやまおさむは、先輩の精神科医、大学教授の前田重治と書いた「良い加減に生きる 歌いながら考える深層心理」(講談社新書)の中でそう書いている。
時代を変えたアーティストやグループはいくつもいる。彼らの登場でその後の流れが変わった。当人にとっては思い付きの遊びだったことが、その後の人たちとっては人生を変えてしまうような大きなきっかけになった。
そういう人たちの中でも、1967年に「帰って来たヨッパライ」で衝撃的なデビューを果たしたザ・フォーク・クルセダーズ、通称フォークルは当時も今も他に比較対象のない一組だった。その時のメンバーが加藤和彦、はしだのりひこ、きたやまおさむの3人である。
「帰って来たヨッパライ」の破天荒さ
2019年10月16日は、加藤和彦が、62才で自ら命を絶ってから10周忌の命日にあたる。
「帰って来たヨッパライ」は、聞いたことのない音楽だった。
"おらは死んじまっただ"という破天荒な始まり。"天国いいとこ一度はおいで""酒はうまいしねえちゃんはきれいだ"という人を食ったような盆踊り口調もテープレコーダーの早回しだ。天国に行ったのは車の急ブレーキの効果音付きの"酔っぱらい運転"の末だ。しかも天国でも酒を飲み続けて神様に"もっと真面目にやれ"と怒りを買って天国を追放されて地上に戻されてしまうという奇想天外な歌。おまけにアウトロにはビートルズとベートーベンと木魚が一緒になっている。
ラジオの深夜放送をきっかけにして「何だこの歌は」という評判は瞬く間に全国に広がり、急遽、発売されたレコードは当時で280万枚という驚異的な売り上げを記録した。
きたやまおさむは、やはり自著「良い加減に生きる」の中で加藤和彦について、「もし『帰って来たヨッパライ』がヒットしていなかったら」と書いている。
常識にも形式にも捕らわれない型破りで自由奔放な遊び心。あの曲があったから今の自分がある、と公言しているミュージシャンは、井上陽水や泉谷しげる、THE ALFEEの坂崎幸之助など数えきれない。
聞き手だけではなく、彼ら自身の運命も一変させてしまった。
フォークルは、京都の龍谷大学の学生だった加藤和彦が雑誌「メンズクラブ」に投稿した「メンバー募集」の呼びかけに応じた学生5人で結成された。真っ先に自転車で駆け付けたのが京都医大のきたやまおさむだった。
「帰って来たヨッパライ」は、卒業する前の記念に自主制作したアルバム「ハレンチ」の中に入っていた曲だ。日本と世界の民謡をカバーしたアルバムの中に入っていたのがオリジナルの「帰って来たヨッパライ」と朝鮮民謡と思って友人の松山猛が詞をつけた「イムジン河」だった。「ヨッパライ」の次のシングルとして発売されることになった「イムジン河」が、作者不明の民謡ではなかったことが判明。朝鮮半島の政治的な状況もあって発売日当日に中止になるという"事件"もあった。
フォークルの異例はそうしたデビュー曲にまつわるものだけではない。
「ヨッパライ」の爆発的な反響によってメジャーなレコード会社、東芝からデビューすることになったものの、彼らの希望は一年間という「期間限定」のプロ活動。オリジナルアルバム1枚、ライブアルバム2枚を残した予定通りの解散は「レコード会社が買えるくらいに稼いだから」という冗談めいたコメントつきだった。
ただ、そのままで終わっていたら、こんな風に語られることもない学生バンドの痛快ヒット話で終わっていたかもしれない。両輪の加藤和彦ときたやまおさむは対照的な別々で輝かしい実績を残して行くことになった。プロになる時に躊躇する加藤和彦を説得したのがきたやまおさむだった。
きたやまと加藤が違った点
フォークルのオリジナル曲の多くが作詞・きたやまおさむ、作曲・加藤和彦というコンビで書かれている。グループ解散後に作詞家になったきたやまおさむには、はしだのりひこが組んだバンド、ザ・シューベルツの「風」やジローズの「戦争を知らない子供たち」、レコード大賞作詞賞を受賞した堺正章の「さらば恋人」など多数のヒット曲がある。
加藤和彦はソロのシンガー・ソング・ライターとして当時のアメリカのヒッピーたちの"LOVE&PEACE"のメッセージをキャッチしたカルチャー・リーダー的なアルバムを発表、73年に組んだバンド、サディスティック・ミカ・バンドはイギリスで評価され、レコード発売、ツアーも成功させた。彼が私財を投げうって設立したPA会社、ギンガムは日本の音響業界を変えた。70年代の日本のロック最大の功労者の一人が彼だ。
ただ、二人が音楽業界にいた時期は長くない。サディスティック・ミカ・バンドのロンドンでのコンサートを、きたやまおさむは、ロンドンの大学の医科研修生として見に行っている。彼の仲間が曲を書き、ロンドンでレコーディングされた彼の76年のソロのファーストアルバム「12枚の絵」の中の「旅人の時代」は、加藤和彦の曲だ。
きたやまおさむは、自著「良い加減に生きる」の中でこう書いている。
"私があの人と違うのは、医学部に戻るという確たる場所があったということです。それに対して、彼のギターのセンスとテクニックは抜群でしたから、その面ではショービジネスに残る自信もあったでしょう"
彼の著書「良い加減に生きる」と同時に自選集CD「良い加減に生きる」も発売されている。選ばれた19曲の中には加藤和彦が合いの手を入れている「旅人の時代」も収録され、ロンドンで曲作りをしている二人の写真も載っている。
フォークルもきたやまも加藤も「コブのない駱駝」
加藤和彦が行った、日本で前例のない試みが80年代前半のアルバムのレコーディングだった。79年、「パパ・ヘミングウェイ」はバハマ、80年「うたかたのオペラ」はベルリン、81年「ベル・エキセントリック」はパリでレコーディングされた「ヨーロッパ三部作」。妻の作詞家、安井かずみやYMOの細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏、矢野顕子らと現地に滞在しながら曲を作りレコ―ディングする。
世界を旅しながらアルバムを作る。そんなスタイルは、当時の若者たちにとっての羨望と憧れだった。80年代日本のバブルの軽薄短小と一線を画したヨーロッパ的デカダンスやダンディズムは"早すぎた大人のロック"以外の何者でもなかった。
その後もヴェネツィアで制作された84年の「ヴェネツィア」、東京とパリで作られた「マルタの鷹」、ロサンゼルスで録音された91年の「ボレロ・カリフォルニア」とそうしたスタイルは、続いたものの、その後にソロアルバムは出ていない。90年代以降、彼はスーパー歌舞伎とのコラボレーションなど、日本的なものに目を向けているようだった。
サディスティック・ミカ・バンドはその後、新たな女性ヴォーカルで二度に渡って再結成、フォーク・クルセダーズもTHE ALFEEの坂崎幸之助を、加えて再結成もされている。
そうやって2000年代を過ごす中で、彼が何を思っていたか。それが、10年前の10月16日の決断につながっていったのだと思う。
公開された遺書には"私のやってきた音楽なんてちっぽけなものだった。世の中は音楽なんて必要としていないし"とあった。
きたやまおさむは自著「良い加減に生きる」の中で"彼の自死はある意味では確信犯なんです"と書いている。
彼の自選集CD「良い加減に生きる」にはフォークルの「コブのない駱駝」も収録されている。作詞・きたやまおさむ、作曲・加藤和彦である。
コブのない駱駝と鼻の短い象と立って歩く豚が自分の姿の醜さを嘆いている。でも、実は、それぞれが「馬」と「河馬」と「人」だった、というオチがついている。
自分が他と違うということで悩んでいる人がいかに多いか。「コブのない駱駝」はきたやまおさむの自伝のタイトルにもなっている。筆者のインタビューに「あの曲が精神科医としての原点」と話していた。
フォークルも、その後の加藤和彦もきたやまおさむもそれぞれが日本の音楽業界では「コブのない駱駝」だったように思う。
そして彼らはそれを自覚していた。
フォークルは、何よりも「自由」に見えた。業界のしきたりや伝統、あるべき姿やあってはならない姿という固定観念がなかった。
加藤和彦は「音楽」にその「自由」を求め、きたやまおさむは「精神」にそれを求めてきた、と言えないだろうか。
彼がいなくなって10年が経つ。
自分の人生の結末をどうつけるか。
これから語られるべきことの方が多いのではないだろうか。
(タケ)