写真より景色 松本千登世さんが箱根で学んだ5歳児のひとこと
クロワッサン(10月10日号)の「清々しいひと」で、ライターの松本千登世さんが観光地で聞いた男児のひと言にフォーカスしている。日々のふとした経験や会話から、筆者が強い印象を受けた人物を取り上げるコラムで、この号で24回目だ。
「いつになく梅雨寒が続いていた7月初旬のある日、箱根を訪れました。聞けば、時期的に少し早かったことに加え、例年よりも雨が多いせいで紫陽花の開花が遅れているとのこと。そのため目に鮮やかとまではいかず...」
ゆったりした冒頭から、翌朝、帰京のため箱根登山鉄道に乗る場面になる。それにしても箱根1泊という慌ただしさは、メディアの世界で生きる宿命とでも言うほかない。
その時季の登山鉄道は「あじさい電車」と呼ばれるそうだ。平日なのにホームは観光客であふれる。中に、若い両親と5~6歳の男の子という家族連れがいた。電車のドアが開くやいなや、彼らはいちばん前、運転席の近くに陣取った。主人公の登場である。
「男の子が車窓に張り付くようにして外を眺める一方、その背後で両親は少しはしゃぎながらそれぞれにスマホのカメラを構え、彼の後姿をかしゃかしゃと撮影」
楽しそうな光景が目に浮かぶ。「仲のよい家族の微笑ましいひとコマをぼんやりと眺めていると、男の子が突然、こう言ったのです」
〈ねえ、こんなに綺麗なんだからさあ、写真なんて撮ってないで、景色観たら?〉
1億総カメラマンの時代
「どこか大人びたひと言に、どきりとさせられました。確かに、彼の言う通り。『今』しかない美しい景色に触れたい。光の強さや角度、風の温度や湿度、音や匂いまでも全身で感じながら...感動とともに記憶に刻むほうが、より豊かなんじゃないか...」
小さな男の子にそう諭された気がして、松本さんは思わず口元が緩んだという。
最後の段落。筆者はインスタ映えやSNS発信を優先したがる昨今の風潮に触れる。いわば1億総カメラマンの時代。公共の場での礼を欠く態度、迷惑や危険を顧みない行為に「心がざわざわ、ざらざらするのを感じていました」と。
今さえ、自分さえよければという価値観の中で育つ子どもたちは可哀そう。そう思っていた松本さんは、男の子の正直な、かつスルドイ指摘に救われたのかもしれない。
「彼は、ピュアな心でとても素直にとても自然に、正してくれた気がして。大げさ? いや、私たちは今、このひと言に学ぶべきだと思うのです」
写真か被写体か
肝心なのは写真や動画か、あるいは被写体(現実)そのものか。古くからあるこの葛藤は大なり小なり、どんな場面でも生じうる。私が日常的に経験するのは、孫の笑顔を待って画面を睨むか、はたまた笑顔で孫と戯れるか、という二者択一である。卑近すぎたか。
シャッターチャンスも実物も「今しかない」のだが、私の場合、新聞記者だったころの悪いクセで、択一なら自分が楽しむ前にまず記録という順番になってしまう。
松本コラムに登場する若い両親も、わが子の成長を記録したいという一心であろう。そこに当の被写体側から、空気を読まない正論が返される。対する両親の反応が書かれていないのが惜しい。私なら「ああ、それもそうだね」とか言って、自らの「大人げなさ」を取り繕うのではなかろうか。スマホは完全にはしまわずに。
絶景は逃げない。いつまでもそこにドンとあるのだが、天候や時間帯を重ねた「この景色」はそれ限り。そして何より、あじさい電車のほうが自分たちを乗せて逃げていく。
そう考えれば松本さんが書くように、「景色を楽しむ子ども」を記録に収めるより、「親子で楽しんだ景色」を五感に刻むのが正解かもしれない。
前者は長く残るが、後者はたぶん深く残る。
冨永 格