流行のオペラを取り入れ変奏曲に ベートーヴェンのピアノ三重奏曲「街の歌」

   ベートーヴェンは、クラシック音楽にとって、とても大きい存在です。音楽史でいうと「古典派」の時代に属する人ですが、同じ古典派時代のハイドンやモーツァルトと違ったのは、初めから宮廷や教会の旧来の権力のために音楽を書いたわけではなかった、ということです。エステルハージー家の宮廷楽長だったハイドンや、キャリアの最初は父に倣ってザルツブルク大司教に仕えたモーツァルトと違って、ベートーヴェンは、貴族から援助は受けていたものの、最初からウィーンの「一般の聴衆」を意識して作曲した作曲家でもありました。

ピアノ三重奏、ピアノ、クラリネット(またはヴァイオリン)チェロのためのと書いてある第1楽章冒頭の楽譜
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「商売」においては意外と現実的

   今日取り上げる作品は、ベートーヴェンがまだ若い27歳ごろに作曲したピアノ三重奏曲 第4番「街の歌」です。ピアノ三重奏曲という編成は、通常はヴァイオリンとチェロとピアノという3つの楽器によって演奏しますが、この曲は、クラリネットとチェロとピアノで演奏することがメインに想定されている珍しい曲です。ヴァイオリンでも演奏できるように、その場合の譜面もベートーヴェンは用意しましたが、本来はあくまでクラリネットが参加します。ボヘミア出身で、フランスでクラリネットと出会い、この楽器の第一人者となったヨーゼフ・ベーアという人から依頼を受けたからだと考えられていますが、当時最新鋭の楽器だったクラリネットを積極的に室内楽にも入れていくところが、ピアノなどにおいてもすぐに新しい楽器の性能を生かした曲を書いていった実験精神に富むベートーヴェンならではの作品ともいえます。

   常に新しい楽器を取り入れ、作曲においてもいろいろな新機軸を打ち出して作品を生み出していったベートーヴェンですが、実は「商売」においては意外と現実的でした。彼が、楽譜出版社に対して送った自作の値付けについての手紙が残っているのですが、本来の作曲の手間を考えたら一番高価でもよい交響曲には低い値段を付け、さらには現代ではそれに次いで人気のあるピアノソナタにも決して強気の値段は付けず、室内楽、たとえばピアノ三重奏などに一番高い値段を提示しているのです。それは、交響曲は一般の人々には奏者を集めて演奏するのがほぼ不可能、ピアノソナタも高い技術が要求されるために演奏困難、それにくらべて、日曜音楽家たちが集まって演奏する可能性もある室内楽作品の楽譜は、売れるだろう、という計算が働いていたからです。

ベートーヴェンの初期の室内楽としてはヒット作に

   ピアノ三重奏第4番の愛称、「街の歌(ドイツ語では流行歌)」は、最終第3楽章の変奏曲の主題が、地元オーストリア出身で、ベートーヴェンの師でもあったアントニオ・サリエリのあとを継いでウィーンの宮廷楽長も務めたヨーゼフ・ヴァイグルという作曲家の、当時流行していたオペラ作品の中のアリアを用いていることにより名付けられました。「街で流行している歌を基にした変奏曲」というわけですね。自作の主題を作って変奏曲を作り上げることの多い「即興ピアニスト」だったベートーヴェンは、他人の旋律を作ることに抵抗を感じていたようですが、(その証拠に、全体が変奏曲ではなく、ある楽章が変奏曲になっている作品で、この曲以外に他人のメロディを採用した例はありません)変奏曲のテーマとなった「仕事の前に」というタイトルのアリアはユーモラスな曲調で、ちょうどほっこりした音色のクラリネットにマッチし、原曲の人気と相まって、ベートーヴェンの初期の室内楽としては、ヒット作品となったのです。楽譜がどれだけ売れたかは記録に残っていませんが、ベートーヴェンの狙いは的を射ていたといえましょう。

   新しいものを積極的に取り入れてゆくベートーヴェンの進取性と、同時に商売という現実を見据えて作曲することもある手堅さが同時に感じられる、とても楽しくて軽やかなピアノ三重奏曲です。

本田聖嗣

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