「月虹」、紐のオブジェ
向き合った日韓を表現

   白、赤、青、黄、紫......さまざまな色の紐(ひも)が複雑に絡まり合った造形物の写真が目に飛び込んできた。

   「これは、韓国の紐、日本の紐、そして京都の錦糸(きんし)をまぜてあるんです。韓国人と日本人がなかなか解くことができない関係や感情のもつれって、こんなイメージでしょうか」

   京都市内の廃校になった小学校。作品展の会場となった築88年の校舎の中で、芸術家のBae Sang-Sun(ベ・サンスン=裵相順)は、そう解説する。

   Baeは、この作品を、韓国の大田(テジョン)という町で戦前に生まれ育った日本人7人を含む、朝鮮半島生まれの日本人14人にインタビューし、その中で得たモチーフをもとに作品を制作した。とくに2018年以降の活動費になったのが、公益財団法人韓昌祐・哲(ハンチャンウ・テツ)文化財団の助成金である。

Bae SangSunさんの助成事業、展覧会「月虹 Moon-bow」。2019年1月14日~27日、JARFO京都画廊で開かれた
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目に飛び込んできた「日本人が戦前に建てた家」

   今は韓国で五番目に大きな都市になった大田広域市に引かれた理由について、Baeは、次のように話す。

   「私は韓国出身ですが、20代で日本に来て、16年の京都暮らしを含めて19年近く日本で暮らしています。日本の暮らしが長くなるにつれ、韓国のことをもっと知りたい気持ちが強くなっていったのです。そんなとき、韓国の大田文化財団が、市内にある文化的資産を芸術家の視点で捉え直すプロジェクトを始めたのを知り、応募しました」

   それは2015年のことだ。9人の芸術家が創作の対象を求めて町の中を歩き回った。Baeの目に飛び込んできたのは、なぜか、日本人が戦前に建てた家ばかりだった。朝鮮戦争(1950年6月~1953年7月)で大田の町はほぼ壊滅したのだが、蘇堤洞(ソジェドン)という地域に鉄道技術者の官舎だった家がまだ残っており、官舎の番号を記した札が貼られたままの家もあった。

   寒村だった大田を、鉄道の重要な中継拠点として日本が開発に着手したのが1904年(明治37年)。朝鮮半島を植民地支配する6年前のことだ。日本は日露戦争に備えて、朝鮮半島を横断する鉄道建設を急いでいたのだ。翌年、京城(現・ソウル)と釜山を結ぶ京釜(けいふ)鉄道が開通、以来、大田に日本人が多数住むようになり、急速に都市化していく。

   それにしても、なぜ日本家屋に引かれ、日本人に話を聞こうと思ったのだろう。

   「自宅近くの京都の町並みによく似ていたこと。それと当時の日本人と私が置かれた状況に共通するところがあったからです。つまり、自分の夢やいろんなことを叶えるために、母国を離れて暮らした。でも戦争が終わったので日本人は帰国した。私も何かあったら韓国に戻るときがくるかもしれない。また大田で生まれ、幼少期を過ごした日本人はどんな思い出があるのか。私にも子どもがいるので、聞いておきたいとも思ったのです」

   Baeが、京都に住むきっかけになったのは仏像である。韓国の大学で美術を学んでいたが、4年生のとき、友人の母親が京都に住んでいたので訪れた。日本にも仏像にも興味はなかったが、たまたま案内された広隆寺(こうりゅうじ)の弥勒菩薩(みろくぼさつ)と対面した途端、涙が溢れてきた。

   「仏像の顔に自分の家族が映っていたのです。ヨーロッパの美術館にたくさん行き、憧れのような感情があったけど涙はでなかった。このとき初めて芸術って何かを考えました」

   大学を卒業後、学校で教師をしたあとに来日。武蔵野美術大学大学院を経て、2008年まで京都市立芸術大学大学院で研究生活を送った。

「死んだら韓国に埋めてほしい」

   大田研究に話を戻そう。かつて大田に住んでいた日本人にインタビューし、大田で取材をするうちにわかってきたのは、大田が日本そのものだったということだ。日本人の商店街があり、日本人学校があり、日本語だけで生活ができた。驚いたのは、戦前・戦中に大田にいた韓国人の中に、日本人に悪感情を抱く人が少ないことだ。

   「野原を高いお金で日本が買ってくれたので、土地を持っていた人は大金持ちになったし、町として開けていったからです。日本に土地を奪われたりして、怒るソウル市内の人などと比べるとまったく違う世界でした」

   大田で生まれ育った日本人も、当時の大田にいい思い出を持っていた。

   取材した最高齢は当時92歳の女性。大田生まれの彼女は、大きな商売をしている家のお嬢様で、日本人学校に通い楽しく過ごしていたという。むしろ、戦中に日本の学校に通うために京都で過ごした日々のほうが辛かった。朝鮮半島生まれであることを、友だちから蔑(さげす)まれたからだ。また夫も朝鮮嫌いで、大田での思い出は封印したままだったという。

   3代続いた醤油会社の3代目にも会った。祖父の代に大田で会社を設立。社員旅行や飲み会なども韓国人従業員と一緒で、現地の人とは良好な関係を築いていた。父親の大田への愛着は深く、敗戦から1か月以内に引き上げなければいけないのに、10月まで大田に留まった。そして遺言は「死んだら、骨の一部を韓国に埋めてほしい」だった。

   鉄道官舎で育った兄弟にも会った。父親が鉄道の仕事をしていたのだが、Baeが取材に訪れると言うと、当時の記憶をもとに、官舎の精巧なミニチュアをつくってくれた。

   Baeは、取材を重ねるうちに、頭の中が混乱することがあったという。

   「これをアートとして制作するのはいいとしても、取材した内容を公表すると、植民地政策はよかったという風にとられかねないし、韓国人からは何のためにやっているのか、と批判されるのは目に見えていました。取材をやめようかと思ったことがありました」

   知り合いの研究者に相談したところ、「大田で生まれたお年寄りの話を、興味をもって聞ける人はあなたの他にいない。これは大切な研究だし、意味のあることだ」と励まされた。確かに、この人たちは「歴史」という大きな枠組の中では小さな存在かもしれない。でも歴史の大切な一コマである。

   そこからBaeは、「月虹(げっこう)」(Moon-bow)というモチーフを着想する。これは、太陽光線によって生まれる虹とは異なり、月の光によってつくられる虹のことである。

   月の光は月に反射した太陽光線だから、光としては弱い。月虹ができていても見えにくい。しかし満月で強い月光があるときには見えることがある。ただし、逆サイドから雨が降る条件が偶然重なったときだけ。大田の日本人たちは、月虹のように見えづらい存在ではあるが、偶然出会えた人たちだったのだ。

固くもつれた紐が少しはやわらかくなるかも

   Baeは、ずっと、紐を通じていろいろな関係性を表現する作品を多く手掛けてきた。冒頭に紹介した紐のオブジェは、植民地時代の敵対と共存の歴史や、戦後、日韓に流れた反発や友好の感情だけでなく、かつて大田に住んでいた日本人や韓国人の思い出の反映でもあるし、大田の取材を通じて湧き上がったBae自身の混乱の反映でもある。

   「日韓関係は戦後、鉄道の線路のように、近づくことも離れることもないまま平行線をたどってきました。同じ平行線でも、日韓の人々が背を向け続けていたら、次につながらない。でも向き合った状態になれば、固くもつれた紐が少しはやわらかくなるかもしれない。このオブジェがそれを考えるきっかけになればと思っています」

   小学校での展示会は、「KG+SELECT 2019」というアートフェスティバルの中で行われた。Baeによれば、公益財団法人韓昌祐・哲文化財団の助成金で昨年1月に、JARFO京都画廊で開催した展覧会「月虹 Moon-bow」と立命館大学創思館カンファレンスホールで開催したシンポジウム「記録されぬ人々」が評価され、今回のフェスティバルの参加につながったという。今回の大会カタログの表紙を、Baeの作品が飾っている。

   展覧会の教室の窓には、ウバメガシという樫の一種の写真がコラージュされている。これは日本人が木炭の材料として、戦前に植えていた木で、日本人が住んでいた目印にもなっている。いまも大田だけでなく、韓国各地にウバメガシが群生している場所がある。

   教室には、懐かしい音がずっと響いていた。聞けば、胎児の脈の音と胎児が聞く母親の心音を合成したものだという。その音の発信元は、三つの紐でつくった、もう一つのオブジェの中。心臓のように収縮と拡張を繰り返していた。その音は、大田への懐かしさを甦(よみがえ)らせるだけでなく、日韓の新しい時代を生み出す鼓動にも聞こえる。(敬称略)

(ノンフィクションライター 西所 正道)

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