「反逆する異端児」E.サティ 異色の作曲家は「現代音楽の開祖」に

   今日とりあげる作曲家は、フランスのエリック・サティと彼の代表曲である「ジムノペディ」です。21世紀の現在では、CMの音楽やBGMとして使われて、すっかり有名になり、市民権を得た「クラシック音楽」とされていますが、もともとサティも異色の作曲家なら、作品も大変前衛的だったので、1980年以前は日本でもあまり知られていない存在でした。

サティの若いころの肖像画
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最も急進的な反ワーグナー派

   サティは、反逆する異端児でした。1866年フランス・ノルマンディー地方のオンフルールに生まれたサティは、生まれからしてちょっと普通の「フランス人」ではありませんでした。地方ごとに独特の文化や独自言語さえあるフランスですが、ノルマンディー地方は、その名が示す通り北方ノルマン人の影響が濃い時代もありましたし、それ以前は、ケルト系の人々が暮らしていたので、ラテン系のフランスよりも、むしろケルト系のスコットランドやウェールズとのかかわりあいを示すバグパイプなどが伝統楽器として伝わっていますし、現在でもパリに行ったことはなくてもロンドンには行ったことのある人たちのほうが多い・・・ともいわれます。そして、サティの母親はスコットランド人でした。そのため、通常のフランス語なら「Eric」と綴るファーストネームをある時期から「Erik」という英語的なスペルに変えているのです。これが第1の中央のフランスとフランス語に対する反逆。

   そんなサティも首都パリに出て、私の母校でもあるパリ国立高等音楽院に入学しますが、ここでも「音楽院始まって以来の怠惰な生徒」という評価を教授陣から受けます。でもこれは、彼は怠惰なのではなく、むしろ教授陣の旧来的な考え方への反発をこのころから明確に持っていた、ということなのかもしれません。守旧的な教育機関に合わない、自由な考え方の持ち主だったのです。フランスのアカデミズムに対する、第2の反逆。

   19世紀フランス、いや、欧州の音楽シーンを覆っていたのは、調性音楽を究極まで発展させたワーグナーの楽劇に対するあこがれ、賛美でした。それだけ大きい存在のワーグナーの音楽とは、「楽劇」と称されるオペラで、ワーグナー自身が台本を書いた物語があり、演奏時間も長く音も分厚く重厚長大で、クラシックの伝統である機能和声を究極まで発展させ複雑なハーモニーに彩られていました。彼の楽劇だけを演奏する劇場のあるバイロイトは、作曲家たちにとってさしずめ「聖地」となっていました。フランスは、ナチュラルにドイツに対する反感があるので、ワーグナー熱烈信奉者だけ・・とはならなかったのですが、その中でもサティは最も急進的な反ワーグナー派だったといってよいでしょう。1891年には、「トリスタンはろくでなし」というどこから見てもアンチ・ワーグナーなオペラを企画しています。これは未完に終わってしまいましたが、サティは音楽の題名などで、ワーグナーの楽劇の対極にあるような無意味かつ意味不明なタイトルを乱発しています。「ジムノペディ」というのもサティの造語で、古代ギリシャに由来を持つ・・といわれていますが、現在でも「意味不明」です。ワーグナー的重厚長大作品には、ものすごく簡潔で短い作品でもって、そして、ワーグナーにより究極まで複雑化された「機能和声」には、はるか昔の「教会旋法」などを取り入れることによって、シンプルかつ調性音楽の破壊を仕掛け・・・と、サティはその作品において、徹底して「ワーグナー的なるもの」に反発します。これが第3の反逆。

自由を何より重んじる姿勢が一貫

   調性音楽を否定していっただけでなく、サティは、調性を決定する調号(♯や♭などの記号を五線譜の最初につけること)を記入することもなくなり、あろうことか楽譜の黎明期から存在した小節線さえ取り払った音楽を書いたりもします。これは「楽譜」という伝統に対する第4の反逆。

   音楽とは会場に座ってじっと聞くこと・・・現代でもクラシックの音楽会はそのように聞かれることがほとんどですが・・・これも否定して、その場にある音すべてを音楽とする、その中には観客のおしゃべりも含む、という現代の環境音楽に通じる「家具の音楽」という提案も行います。起承転結を意図して、ロンド形式、ソナタ形式などの「形式」を生み出してきたクラシック音楽に対しては、同じものをひたすら何百回も繰り返すという単調極まりない「ヴェクサシオン」という曲を作曲し、形式をあざ笑うかのようなこともします。歴史あるクラシック音楽の形式に対する第5の反逆。

   実はこれらの「音楽に対する反逆」は、すべて、サティのあとのフランスの音楽家や20世紀の音楽家たちによって受け継がれ、そのため、「一風変わった作曲家」だったサティは「現代音楽の開祖」といわれるまでになります。

   一方、音楽を離れた私生活でも、しょっちゅう一風変わった驚きの行動をとる人でした。ベル・エポックのファッショナブルなパリとその郊外に生活しているのに、長髪に山高帽にフロックコートをまとい、杖を手にして歩く・・といつも同じ格好で、ピアノ弾きのアルバイトに通っていたと、数々の目撃証言があります。さしずめ、ファッションに対する反逆。軍隊に入隊した経歴もあるのに(ちなみに早期除隊のために音楽院に学籍を残していた、という説もあります)社会党や共産党にも入党し、一方で教祖と信者が彼ただ一人というへんてこな宗教団体「指導者イエスの芸術首都教会」も主宰します。共産主義者を実践するために、「作曲のギャラが高すぎる」という理由で依頼を断ったり、新品の帽子をお尻の下に轢いて床を往復し、わざわざヨレヨレにしてからかぶる・・ということもしていたそうです。現代ならちょっと「アブない人」と見られてしまいそうですが、サティはすべての権威や伝統や表面的なカッコつけに反逆し、自由を何より重んじる、という姿勢が一貫しています。

「エリック・サティ、ジムノペディストです」

   今では彼の代表曲として演奏されるピアノ曲、「ジムノペディ」・・・全3曲中、特に第1番が有名で、皆さんも1度は耳にしたことがあると思います・・・は比較的初期、22歳の時の作品であるため、小節線も調号もある「伝統的なクラシック音楽」の記譜法に倣っていますが、それでも十分斬新で、21世紀の現在、やっと時代が追いついたといってもよいぐらいの作品です。そこには、サティの良く言えば「自由奔放さ」、悪く言えば「確信犯的いい加減さ、ユルさ」、があふれており、なにより彼の世界を知る良い入門作品となっています。ゆるりとした音楽なのに、言葉を超えた、音楽のメッセージ性にあふれています。

   親元を離れ、若き無名の音楽家として芸術家のたむろするパリ・モンマルトルに暮らし始め、ピアノ弾きのアルバイトの面接でキャバレーの興行主に出会ったとき、彼は胸を張って「エリック・サティ、ジムノペディストです」と名乗ったそうです。7年在籍したパリ音楽院の旧来のアカデミズムに辟易していた彼がようやくそれらから解放され、自由な都市パリの中で自由人として生きてゆく・・彼の造語「ジムノペディ」には、彼自身にしかわからない、そんな意気込みが込められているような気がしてなりません。

本田聖嗣

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