「交響曲」の意義を受け継ぎ壮大な世界をつくりだす マーラーの第3番(後編)
(先週から続く)1860年にボヘミアのカリシュトという小さな村で、12人兄弟の上から2番目として生まれたグスタフ・マーラーは、4歳になるころにはすでに音楽の才能を発揮します。まずはボヘミアの首都プラハに出ますが、そこでの教育には満足せず、いったん故郷近くのイーグラウに戻った後、そこで出会った農園の管理者の援助のおかげで帝都ウィーンに出て音楽の勉強をする機会に恵まれました。
まだ若干15歳でしたが、すでにピアノの実力もかなりのものだったマーラーは、ウィーン楽友協会付属音楽院でめきめきと実力をつけます。当時のウィーンの音楽学生は、みな熱烈なワーグナー支持者で、マーラーも、のちに歌曲の作曲家として有名になる友人フーゴー・ヴォルフなどと、1日中ワーグナーの楽劇をピアノで演奏して楽しむことなどがあったようです。
師匠ブルックナーとの絆
父の意向で、ウィーンの音楽院だけでなく、イーグラウのギムナジウムで普通の科目も学んでいたマーラーは、そのあとウィーン大学にも入学し、哲学、歴史、音楽史、美学などの講義を受け、同時に若いころの彼は大変な読書家でもあったので、すでに彼の内面には、のちの作曲家マーラーの基礎となる世界が形作られていました。この時期に、すでに交響曲作曲家として歩み始めていたブルックナーの講義も受講していて、ブルックナー先生が自作の「交響曲第3番」の初演の失敗で落ち込んでいた時には、弟子として励まし、ピアノ連弾用への編曲も許可されて、友人のクルツィツァノフスキーと共にそれを完成させた折には、師匠ブルックナーから感謝のしるしとして、交響曲第3番のスコア(総譜)を贈られています。マーラーは指揮者となって活躍するようになってからも、ブルックナーの交響曲を頻繁に取り上げ、彼の作品の紹介に力を尽くしています。ちなみに、ブルックナーは交響曲第3番を、尊敬するワーグナーにささげています。
ウィーンではピアノのレッスンのアルバイトなどをしながら、学生としてはオペラ、カンタータ、室内楽曲などを作っていたマーラーは、おそらく作曲家になろう、と考えていましたが、残念ながら今も昔も作曲家というのは生活が成り立ちません。作曲だけやっていては、儲からないのです。音楽院を優秀な成績で卒業して2年の間、バイト生活をしましたが、音楽を作る、ということにことのほか情熱を燃やす若きマーラーは、そんな生活に飽き足らず、のちに、自分では「劇場の地獄の生活」と呼ぶことになる、歌劇場の指揮者としての道を歩み始めます。
指揮者としてチャイコフスキーから天才と称される
手始めは当時オーストリア公爵領ライバッハと呼ばれていた、現在はスロベニアのリュブリヤナの州立劇場の指揮者となり、指揮をしつつ、ピアニストとしても活躍します。そのあとは、モラビアの小さな町オルミュッツの王立市民劇場の常任指揮者となり、その次はカッセルの王立劇場の第二常任指揮者、さらにはプラハのドイツ劇場の第二常任指揮者、26歳の時にはライプツィヒの劇場の第2常任指揮者となった後、ブダペストの王立ハンガリー・オペラの芸術監督として10年の契約を結びます。言語が入り乱れ、混乱していたハンガリーのオペラ上演を、演出にまで立ち入って、猛烈な回数のリハーサルをこなし、立て直し、幅広いオペラのレパートリーの上演に骨を折りますが、同時に、ライプツィヒ時代に完成していた自作の交響曲第1番「巨人」の初演にも、こぎつけます。
質の高い演奏を目指すために、容赦なく専制的な指揮者であり、リハーサルの鬼であったマーラーはどこでも毀誉褒貶が激しく、ブダペストとも決別して、北ドイツのハンブルクへ向かいます。当時ベルリンに次いでドイツ第2の大都市だったハンブルクの聴衆は質が高く、マーラーは高く評価されます。ハンブルク時代、自作のオペラのドイツ初演に来ていたチャイコフスキーも、マーラーの指揮ぶりを見て、「彼は天才だ!」と評価しています。ここでロンドンへの海外公演など、6年の充実した活動を行ったマーラーでしたが、この時期の彼のイメージは完全に「優秀なオペラ指揮者」であって、誰も彼を作曲家としては見てくれなくなりました。
そこで、彼は自分が「刑務所の強制労働」と呼ぶ歌劇場の指揮者の仕事の合間に、厳密な時間管理のもと、作曲家としての活動を再び始めます。オーストリアのアッターゼー湖畔の集落シュタインバッハにちいさな作曲小屋を建てたマーラーは、自然の中を散歩しながら、すでに作りつつあった第2交響曲を完成させ、同時に、もっと大規模な「交響曲第3番」を作り始めるのです。
交響曲の描く壮大な世界に当初から自信
すでに2曲の交響曲で、大自然や人間の複雑な感情をも描くことに慣れてきていたマーラーは、第3番で、もっと壮大な世界・・宇宙を含めたこの世のありとあらゆることを描こうと試みます。彼としては、珍しく、全体の構成を各楽章のタイトルを決めることによって、大規模な構造を最初に俯瞰しようとします。のちに、やはり言葉は先入観をもたらし誤解を招く、としてすべて削除してしまいますが、スケッチが完成した段階で、彼は友人に各楽章のタイトルを手紙で知らせています。
夏の真昼の夢
第一部
導入部 牧羊神がめざめる
1. 夏が行進してやってくる
第二部
2. 野の花たちが私に語ること
3. 森の動物たちが私に語ること
4. 人間が私に語ること
5. 天使たちが私に語ること
6. 愛が私に語ること
これがそののち、全6楽章へと収れんしていきます。当初は全7楽章として考えられましたが、第7楽章は、次の交響曲第4番へ転用されています。
すでに交響曲第2番「復活」の第4楽章で、ベートーヴェンの「第九」以来、初めて交響曲に声楽を登場させ、人間の世界を超えた天上への信仰を描き出していたマーラーは、第3番でも躊躇なく声楽を取り入れます。しかももっと大規模な形で・・・すなわち、アルト独唱、児童合唱、女声合唱・・・を取り入れたのです。第4楽章では、R.シュトラウスの交響詩で有名になったニーチェの「ツァラトストラはかく語りき」の一部が歌詞に使われています。
マーラーは、この交響曲の描く壮大な世界に当初から自信を見せていて、友人に、「この交響曲は、世界がいまだかつて耳にしたことがないものだ」と書き送っています。また、弟子のブルーノ・ワルターが作曲小屋を訪ねてきたとき、その周囲の自然に驚いた彼の言葉に対して、マーラーは「眺めるには及ばないよ。すでに僕がすべて作曲してしまったから」と言った、というエピソードは有名です。自然を描き、その背景にある哲学や神話に思いをはせ、人間と、信仰と、天上界とのかかわりを描く・・・マーラーは、ベートーヴェン以来、「人間の知覚しうるもっとも壮大な世界を描く」という交響曲の特性を、自身の指揮者としての現場での技量を活かしながら、綿密なプランニングのもとに、まずは「第3番」という形で結実させたのです。
第1楽章だけで演奏時間が45分、全体では1時間40分かかるこの交響曲は、かつてギネスブックに「世界最長の交響曲」として掲載されていたこともあります。確かに、演奏時間も長い交響曲ですが、そこには、ベートーヴェン以来のウィーンの伝統である「交響曲」を進化させた、天才マーラーのエッセンスが詰まっているのです。
本田聖嗣