望郷のブラジル移民 ヤマザキマリさんは老人の背を優しく押した
ku:nel7月号の「わたしの扉の向う側」で、漫画家のヤマザキマリさんが、旅先の飛行機で乗り合わせた日本人のブラジル移民について、しみじみと振り返っている。
ヤマザキさん自身も1984年にイタリアに渡り、フィレンツェで絵を学び、イタリア人と結婚、シリア、ポルトガル、米国などで暮らしたコスモポリタン。現在はイタリアと日本を行き来する生活だ。映画にもなった「テルマエ・ロマエ」の作者である。
「国内だというのにアマゾナス州のマナウスからサンパウロまで飛行機で約5時間、ブラジルは広い」。筆者はブラジルから日本への帰途、リマ経由でロサンゼルスに向かう機内で、隣席の老人から「日本人ですか」と不意に問いかけられる。
「その人もやはり私と同じくマナウスからロス経由で東京へ向かうのだという。マナウスの便からすでに私には気がついていたのだそうだ」
この男性は旧満州で生まれ、終戦時に引き揚げてきた世代だという。身寄りもないので、一念発起してブラジルに渡ったのが50年前。〈一緒に入植した仲間はみなマラリヤで亡くなりました。私は運が良かった〉とヤマザキさんに語っている。今回の日本行きは、静岡にいるはずの親戚を訪ねるのが目的だが、先方は音信不通。あてなき訪問である。
「日本も随分様変わりをしたでしょうなあ、と不安と高揚の入り混じった声がかすかに震えている...もし(親戚に)お会いできなかったらどうするのですか、と聞いてみると〈その時は日本を観光して帰るだけです〉と老人は力なく答えた」
ヤシの芽の瓶詰
「自分の故郷でありながら『帰り』という言葉の指す先にあるのは日本ではない。この感覚は私にも共通する...ポルトガル語と日本語を混ぜながら訥々と語る過去は壮絶な内容だが、まるで何かの生き物の観察日記でも読み上げているかのように淡々としている」
最初はパパイヤ、後にパルミット(ヤシの新芽)を栽培してきたという老人。妻は2年前に亡くなり、子どもはいないと身の上を語った。
「変わり果てているに違いない日本への払拭できない胸の奥の不安を、私とのおしゃべりで解消したかったのだろう」
ロスからの乗継便が日本上空に入ったあたりで、老人は「親戚への手土産」を披露した。アマゾンの赤い実で作ったネックレスと、自己の存在証明ともいえるパルミットの瓶詰だった。ヤマザキさんは税関の出口まで同行したが、老人はすでに呆然と立ちすくんでいたそうだ。とりあえず東京駅へ向かうという彼を、ヤマザキさんは「私はパルミット大好きですよ、ヨーロッパでもよく食べます、家族も大好きです」と励ました。
そして「Boa sorte!=ボア・ソルチ(幸運を)」と。
「すると老人はふわっと花が開くように微笑んだ。泣きそうな顔にすら見えた。「ありがとう」とポルトガル語でひとこと残すと、そのままタイヤの壊れた古いスーツケースを引っ張りながら去っていった」
随筆家の礼儀
読み進めつつ、ヤマザキさんのブラジル行きは取材だったのだろうかと思った。マナウスで日系人たちに会っているようなので、お仕事なのかもしれない。いずれにせよ、私たちは普通、あてのない宙ぶらりんの旅はしないものだ。
仕事にせよプライベートにせよ、旅先でのちょっとした話をエッセイで展開するには、もとになる話の面白さに加えて、相応の構成力を求められる。上記随筆の場合、素材の「本体」はたまたま隣に座ったブラジル移住者の言動だけである。筆者の感想を挟みつつ最後まで読ませてしまうのは、文章の力と、作品を貫く老人へのリスペクトゆえだろう。
ブラジルでもハワイでも、大戦を挟んだ日系人の苦難は様々に語られている。ブラジルには20世紀初めから約13万の日本人が渡ったという。ヤマザキさんに身の上を語った老人は、先人たちが切りひらいた社会に途中から加わった世代。それでも、身寄りのない「1世」としての苦労は想像に難くない。
「パルミットは日本の人には馴染みがないですね」と不安を隠せない老人を、ヤマザキさんは最後に励まして見送る。老いた背中を押すように。
〈こちらこそありがとう、あなたのことを書かせてもらうかもしれません〉。そんな、随筆家としての礼儀を私は感じた。
冨永 格