盟友サン=サーンスに邪険にされたが... セザール・フランク「ピアノ五重奏曲」

   クラシック音楽の楽譜を見ると、作曲者が誰かにその作品を献呈した、という言葉が書いてあることがあります。音楽家の雇い主が王族や貴族階級だった時代、パトロンに捧げた習慣から続いているものですが、近代になって作曲家が依頼ではなく自分の創意に従って書き上げた作品にも、献呈の辞が書かれていることも多くあります。友情や信頼や時には恋愛の証に、注文主ではない誰かに献呈する、というのは文学作品などと同じように芸術作品の一つの型なのかもしれません。

   今日は、この献呈の辞が削られたある曲をご紹介しましょう。セザール・フランクの「ピアノ五重奏曲」です。ピアノと、ヴァイオリン2本、ヴィオラ、チェロの5人で演奏される室内楽曲です。

勤勉かつ控えめと伝わっているフランクの肖像
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「フランクの後期作品群」初期の作品

   1822年、当時はまだネーデルランド王国だった現在のベルギーのリエージュに、フランクは生まれます。両親の教育指導法のもと、リエージュ音楽院を卒業した後、音楽先進国である隣国フランスに引っ越し、私の母校でもあるパリ国立高等音楽院に進学します。パリ音楽院時代にすでにピアノやオルガン、作曲で頭角をあらわした彼は、いったん祖国へ戻るものの、音楽家になることを決意して、フランスにやってきます。

   フランスでは特に教会のオルガニストとして活躍し、特に、サン=クロチルド教会の正オルガニストの地位を亡くなるまで続けます。オルガニストという職業から、作曲家として優れたオルガン曲もたくさん残したフランクですが、1872年、母校のオルガン科の教授に就任した彼は経済的安定も手に入れ、作曲により力を入れるようになります。

   いわゆる「フランクの後期作品群」の初期の作品となる1曲が、1879年に作曲された「ピアノ五重奏曲」です。フランクの他の代表作にも表れる特徴である、「循環形式」・・あるテーマ(旋律)が繰り返し形を変えてそこかしこに登場して全体の統一感をもたらす・・・などの後期フランクの特徴がすでにあらわれ、彼独特の濃密な音世界の室内楽作品となっています。

   そして、この作品は、盟友サン=サーンスにささげられたのでした。フランクは出自こそフランス国外でしたが、フランスに長年暮らし、フランスに帰化し、そして、当時のクラシック音楽で存在感を発揮していたドイツ系音楽に対抗して、フランス独自の音楽を生み出そうとし、同じ意見で意気投合したサン=サーンスやフォーレなどと、1871年「国民音楽協会」の設立に尽力していたのでした。このサークルから、19世紀後半から20世紀にかけての輝かしいフランス音楽の伝統が生み出されることになり、フランクは多くの弟子を育て上げたこともあり、「国外出身であるが近代フランス音楽の立役者の一人」として、現在でも尊敬されています。

露骨な嫌がらせの真相は不明

   その国民音楽協会仲間で、「フランスのモーツァルト」という神童伝説をもつサン=サーンス・・・彼もオルガニストであると同時に優れたピアニストでもありました・・・にフランクは「ピアノ五重奏曲」を献呈したのです。そして、国民音楽協会で初演されるとき、サン=サーンスみずから、ピアニストの役を買って出てくれたのでした。

   しかしながら、マルシック四重奏団と一緒に演奏し終えたサン=サーンスに、フランクが近づいてあいさつをしようとしたところ、自分への献辞が書かれているにも関わらず、サン=サーンスはピアノの上に自筆譜をほったらかしにして舞台を後にしてしまったのです。露骨な嫌がらせでした。

   真相は、分かりません。室内楽作曲家として再始動し始めたフランクの才能に嫉妬したからだとか、このころから「守旧派」と攻撃されることが多くなり、保守的な傾向を見せ始めていたサン=サーンスにとって、フランクの音楽は新しすぎたからだとか、さらには、この時期夫人を差し置いてフランクが熱を上げていた彼の弟子で作曲家の才能あふれる女性が、その昔、サン=サーンスの交際申し込みを断ったからだ・・といういかにもフランス的な理由まで、憶測として語られています。

   初演者サン=サーンスには邪険にされてしまいましたが、フランクの後期の作曲充実期のスタートに当たる「ピアノ五重奏曲」は、その後のさらに大傑作への道を開く、重要な作品となったのです。

   本田聖嗣

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